夢を見た。
新一の夢だった。
目が覚めて、夢だったのだと分かった瞬間に、涙が零れた。
幸せな、夢だった。
学校帰りに新一と、東都タワーに寄り道した。
展望台から望遠鏡を覗いて、箱庭のように広がる自分達の住む町を見下ろして、無邪気にはしゃいでいた。
ちっとも望遠鏡の順番を替わってくれない新一の腕を引いて、笑いながら文句を言った。
やっと替わってくれた望遠鏡で、自分達の学校を見つけ、嬉しくて新一に教えてあげようとしたのに、何も言わずにどこかに行ってしまって。
どこ行ったのよ、なんてまた文句を言いながらきょろきょろしていたら、いきなり缶ジュースを頬に当てられて、その冷たさに小さく悲鳴をあげた。
視線の先には、悪戯っぽく笑う新一がいた。
その笑顔が、好きだった。
どうして夢なんだろう。
あの頃には当たり前だった日常が、今では夢の中でしか感じることができない。
そして目覚めてから、それが夢であったと思い知らされて・・・涙を流す。
もう何日も、そんなことを繰り返していた。
そして、そのたびに思うのだ。
こんな夢を見なければ、目覚めたときにこんなにも切なくないのに、と。
でも、それでも・・・朝がどんなに辛くても、夢の中でしか会えない新一の笑顔が見たかった。
夢だとわかっていても、幸せだったあの頃に、戻りたかった。
だから、毎日、夢を見る。幸せな、夢を。
そして毎朝、涙を流す。
「・・・学校、行かなきゃ・・・」
ぽつりと呟いた自分の声が、驚くほど弱々しかった。
新一がいなくなってから、自分はどんどん弱くなっていく。
思い出ばかりを、懐かしんでいる。
こんなんじゃ、ダメだ。
わかってる。
新一は、前を向いてがんばっているのだから。
わたしも、ちゃんと前を向いて歩かなければ・・・。
ようやく止まった涙を拭いて、ベッドから抜け出す。
鏡を覗けば、泣きはらした真っ赤な目の自分の顔が映った。
みっともない顔・・・。
こんな情けない顔、新一には見せられないね。
机の上の写真立ての中で笑っている新一に、無理に笑顔を作ってみせた。
制服に袖を通し、身だしなみを整える。
いつもと変わらない一日が始まる。
学校へ続く道だって、何一つ変わらない。
変わったのは、自分の隣に新一がいないという、ただそのことだけ。
他愛もないおしゃべりや、時々は喧嘩をしながら歩いたこの道を、今は一人で歩いている。
前を向いて歩かなければ、と自分に言い聞かせたばかりだというのに、気がつけば新一のことを考えている。
あなたは今、どこにいるの?
戻ってきて。
傍にいて。
そう強く願っても、きっと新一には届いていない。
自分の気持ちだけが、むなしくこの青空に響いていく。
きっと、今夜も夢をみるだろう。
明日も、明後日も、その次の日も、ずっと・・・。
そして目覚めて、新一がいない現実に打ちのめされる。
そんな毎日に、少し疲れてきている自分がいる。
新一のことなど忘れてしまえば・・・好きでなくなってしまえば、こんな想いをすることも、ないのだ。
けれど一方で、夜がくるのを・・・夢の中ででもいいから新一に会えるのを、渇望している自分もいる。
新一に会える夜が来るのが、待ち遠しい。
新一がいない朝が訪れるのが、恐ろしい。
相反する二つの感情の狭間で、翻弄される。
いっそ感情などなければ、もっと楽に生きられるのに・・・と、少し憂鬱になる。
でも感情がなかったら、あの幸せだった日々を、幸せだったのだと感じることもできなくなる。
大好きだったあの笑顔も、大好きだと思えなくなる。
それは嫌だ。
どんなに切ない朝を迎えたとしても、新一を好きな気持ちを、なくしたりなんかしたくはない。
だから今日も、切なさを胸に抱えたままで、一日が過ぎてゆく。
クラスメイトとの楽しいおしゃべり。
部活動で流す汗。
新一が傍にいなくても、この日常はいとも簡単に過ぎ去っていく。
新一がいた頃と、同じように。
朝はあんなに天気がよかったのに、下校時刻には雨がぱらついていた。
「・・・傘、忘れちゃったな・・・」
そういえば、天気予報では夕方から雨だと言っていた。
最近の朝は目覚めのときの感情を引きずったままで、うっかりこんな忘れ物をしてしまうことが、よくある。
自分はもっと、しっかりしていると思っていた。
もっと強い人間だと思っていた。
けれど実際は、強がってみせているだけで、こんなにも脆い。
新一がいないという、たったそれだけのことで、崩れ落ちてしまいそうになるくらいに。
・・・濡れて帰ろう。
雨に打たれれば、少しはしゃきっとできるかもしれない。
だんだん強くなっていく雨脚の中を、ゆっくりと歩く。
傘をさした通行人が、不思議そうな顔で振り返っていく。
そういえば、前にも・・・こうやって雨に濡れて帰ったことがあった。
あれはまだ新一がいた頃だ。
同じように傘を忘れたクラスメイト達が、雨が弱まるのを待ちながら、放課後の教室でいつものようにくだらないおしゃべりをしていた。
その中には新一もいて、もう原因は何だったのかも忘れてしまったが、些細なことで口論になった。
クラスメイト達に夫婦喧嘩が始まったと冷やかされ、それに対して新一がムキになって否定した。
あまりにも強く否定するその姿にカチンときて、先に帰る、と言い置いて、雨の中を校舎から飛び出していた。
今日のような雨の中を、喧嘩をしてしまったことに対する後悔と、出掛けにとった新一に対する子供っぽい自分の態度とに自己嫌悪に陥りながら、とぼとぼと歩いていた。
ふいに頭上に影が射し、驚いて振り仰ぐと小さなビニール傘が差しかけられていた。
背後に、ばつの悪そうな顔をした新一が立っていた。
二人同時にごめん、と呟いて、それが可笑しくてまた同時に吹き出していた。
そこのコンビニで買ったという小さな傘の中で、肩を寄せ合って歩いた。
濡れないようにと、新一が肩を抱いて引き寄せてくれた。
・・・心臓が、破裂するかと思った。
しゃきっとできるかも・・・と思って雨に濡れて歩いているというのに、気づいたら、また涙が溢れ始めていた。
会いたい。
新一に、会いたい。
夢の中だけじゃなくて、今すぐに、あなたに会いたい。
雨が、次から次へと溢れてくる涙を押し流してくれた。
前髪から滴る水滴が、唇を濡らす。
視界が、涙と雨でぼやけてしまう。
このまま・・・雨に溶けてしまいたい、と思った。
気づいたら、新一の家の前に立っていた。
自分の家に向かっていたつもりが、新一のことを考えていたら、自然と足がこちらに向いてしまっていたらしい。
鍵のかかった門扉。
人の住む気配のない、ひっそりとした大きな家。
新一は、ここにもいない。
あなたがこの世に存在しているという痕跡は、ここでも見つけることができない。
夢の中で、しか。
だから、わたしは夢を見る。
幸せで幸せで・・・そして、切ない夢を。
あなたの、夢を。
※※
「・・・気がついた?」
耳元で、優しい声がした。
聞き覚えのある声。・・・小さな、男の子の声。
ゆっくりと目を開けて、声の主を探す。
「・・・コナン君・・・」
「・・・大丈夫?」
気遣うような、優しい声。メガネの奥の、深い色の瞳。
大切な人を思い出させる、大好きな人の面影を宿す、その面差し。
「蘭姉ちゃん、新一兄ちゃんの家の前で倒れてたんだよ?・・・雨が降ってるのに、傘もささないでずっと立ってるから・・・」
どうやら、新一の家の前で新一のことを考えているうちに、濡れた体は熱を出し、倒れてしまったらしい。
身体がだるい。
頭も、何だかぼうっとする。
非難する口調は子供のものだが、宿る響きは優しいもの。
何があったの? と、言外に気遣う真摯な眼差し。
なぜ?
なぜ、あなたなの? コナン君。
いつもそばにいてくれるのも、いつも辛いとき慰めてくれるのも、いつも気遣ってくれるのも・・・すべて、あなたなのね。
新一がいない今、それが嬉しくて。けれど、切なくて。
新一を思い出させるその優しさが。
新一を思い出させるその瞳が、その眼差しが、その仕草が・・・少しだけ、辛い。
けれど、やはり。
それは・・・甘美な思い出につながって、心のどこかを温かくする。
「・・・ごめんね、コナン君・・・心配、かけて」
コナン君が運んでくれたの?・・・と尋ねれば、「博士だよ」と少し悔しそうに言う。
一人前の男の子なのね。
そんなところも、新一を思い出させる。
あなたに新一を重ね合わせて。
わたしは、夢の続きを見よう。
きっとあなたは、新一がいないことに押しつぶされそうなわたしに、神様が与えてくれた・・・たった一つの希望なのかもしれない。
切なさに、崩れ落ちそうなときに。
目覚めたとき、壊れゆく夢を呆然と見送るしかないときに。
そのときに、ちゃんと自分の足で立っていられるようにと・・・そのために与えられた、夢のかけら。
だからわたしは、小さく微笑む。
幼いあたなには、重荷かもしれないけれど。
あなたのその存在が、わたしの心を少しだけ軽くする。
新一のいないこの空虚な空間を、ほんのりと明るく照らす。
まるで、小さな新一。
小さな、夢のかけら・・・。
目を閉じる。
夢の中で、また新一に会おう。
あの頃のように、二人ではしゃいで、笑いあおう。
そして目覚めれば、ほんの少しの切なさとともに、あなたの笑顔がわたしを出迎えてくれるのだろう。
そんな朝も、悪くはないと。
・・・そう思った。
〜Fin〜