帝丹高校恒例の、春のバス旅行。
・・・つまるところ、小学校で言うところの「バス遠足」のようなもので、毎年4月のクラス替えの直後、新しいクラスメイトとの親睦を図ることを目的として、授業を1日潰して行われている。
今年の3年生の行き先はハイキングコースとして有名な秋山高原で、学校からバスで片道3時間の小旅行である。
「新一君は?」
「・・・知らないわよ、あんな推理バカ」
3年B組のバスの中、今年も同じクラスになった園子が、やはり同じクラスに「なったはず」の新一の姿がバスの中に見当たらないことに気づき・・・隣の座席に座っている蘭にその所在を尋ね・・・そして蘭の返事に、にまっと笑った。
「まだ事件から帰ってきてないってわけね、あんたの愛しのダンナ様は」
「・・・その言い方、やめて欲しいんだけど」
いつもなら笑って流せる園子のからかい口調が、今日はなぜだか妙に勘に触って、蘭はいつもよりかなり低い声でそう返していた。
「・・・ご機嫌斜めね」
ええ、そうですとも。
視線だけでそう答えると、大きく大きくため息をつく。
3年生になってから1週間。・・・実はその間、蘭の幼馴染改めコイビトであるはずの新一は、ただの一度も学校に出てきていない。
それというのも、最近新聞を賑わしている「美人ホステス連続殺人事件」とやらに、かかりっきりになっているためだった。
何がどうなっているのか、蘭も詳しくは聞いていないのだが・・・とにかく4月に入って以降、新一はほとんど家にも帰らず、目暮警部たちと一緒になってこの事件を追っているらしい。
「明日から学校よ?わかってるの?」
春休み最終日、もしかして忘れているかも・・・と思って携帯に電話してみれば、
『・・・あれ?春休み、もう終わりか?』
・・・やっぱり、忘れていて。
「始業式くらい、ちゃんと出なさいよ」
『・・・あー・・・けどなー、もうちょっと、かかりそうなんだよなー』
「・・・もうちょっとって・・・これで何日、警察に泊り込んでるのよ」
『・・・5日かな?』
「あのねえ」
『しゃーねーだろ?事件が起こってすぐにオレを呼んでくれてれば、すぐに解決できてたかもしれねーってのに、新米の担当刑事がオレを呼ぶまでもないって勝手に判断しやがって・・・初動捜査は遅れるわ、誤認逮捕はやらかすわ・・・。おかげでこっちはただでさえ少ない手がかりで、容疑者を絞りこむだけでも大仕事で・・・あ』
「・・・何よ」
『わりーけど、飛行機の時間だから、切るぞ』
「飛行機!?あんた、どこに行くつもりなのよ!」
『北海道。容疑者の一人が今そっちに行ってるらしくて、高木刑事と一緒に・・・』
「・・・北海道!?」
『ちゃんと土産買ってくっから、心配すんな。じゃあな!』
「あ、ちょっと!新一!?」
名前を呼んだが、すでに電話は切られていた。
・・・これが、4月になってから新一と交わした唯一の会話かと思うと・・・本当に自分達は恋人同士なのか?と、素朴な疑問が首をもたげてくる。
誰も、事件の内容を説明しろだなんて言っていない。誰も、お土産の心配なんてしていない。
そんな話がしたかったわけではなくて、例えばクラス替えがあるけど同じクラスになれるといいね、とか、暖かくなってきたから、どこか遊びに行きたいね、とか・・・もっと、コイビトらしい話って、あるでしょう!?
推理に夢中になっている新一も、そりゃ嫌いではないけれど・・・というか、むしろ大好きだったりするのだけれど、でも何日も連絡すらしてこなかった挙句に、こんな会話だけって・・・もう少し、かわいい「彼女」のことも考えてくれたってバチは当たらないと思うのだけれど。
何となく面白くなくて、それ以来、蘭からは電話をしていない。
今日のバス旅行のことは一応メールで知らせてあるけれど、「多分行けない」と返信があったっきりで、電話もかかってきやしない。
事件がなければ意外とまめに電話やメールもあるのだが・・・一度夢中になると、他のことがまるで頭から飛んでしまうのだから、あの推理バカは。
ふう、ともう一度ため息をついて、蘭はのんびりと走るバスの窓から外へと視線を泳がせた。
ゆっくりと後ろへ流れてゆく街並が、春の穏やかな陽射しに包まれてキラキラと光っている。出発してしばらくの間は、慌しい都会の喧騒がそこかしこに溢れていたはずなのに、1時間も走れば次第に道路沿いの建物も高さが低くなり、その数も目に見えて減ってきていた。
クラスで貸切のバスの中では、そんな景色を見ながら楽しく談笑するクラスメイト達・・・。3年生に進級してから初めてのこの行事に、みんなわくわくと心を浮き立たせているようだ。
・・・蘭だって、新しいクラスの仲間達と楽しく今日の旅行を楽しみたい。
(・・・あんな推理バカのことなんて、もう知らないっ)
園子に言った台詞を心の中で繰り返して、脳裏に貼り付いてなかなか消えようとしてくれない新一の顔を、蘭は頭をぶんぶんと横に振って強引に心の中から追い出した。
今日はもう、新一のことなんか考えない。そう決めた。
自分の心にそう言い聞かせ、蘭はクラスメイト達の楽しげな会話の中に入っていった。
※※
ハイキングコースの起点にあたる広い駐車場にバスが到着し、濃紺のジャージ姿の帝丹高校生たちは次々とバスから飛び降りる。
座りっぱなしだったせいですっかり凝り固まってしまった身体を、うーん、と思いっきり伸ばし、蘭は高原の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
標高が高いせいか、吹き抜ける風が少し肌寒い。
今回のこのバス旅行の目的は、この秋山高原のハイキングコースを班別行動で1周し、よりクラスの親睦を深める、というもので、蘭は園子と、もう一人、塚田弥生という女の子との3人で行動することになっていた。
コースは3本あり、高齢者や子供向けで所要時間が約1時間の「ゆっくりコース」、ほどほどの距離とほどほどの見所ポイントがある所要時間2時間の「レギュラーコース」、距離は長いがこの高原で一番の絶景ポイントが望めるという所要時間3時間の「たっぷりコース」の中から、自分達の好きなコースを選んで歩くことになっていた。
どのコースを選んだとしても、与えられた時間は同じ3時間。必然的に、長いコースを選べばけっこうハードな山歩きとなる。多くの班はそのハードさを敬遠し、「レギュラーコース」又は「ゆっくりコース」を選択しているようだった。
が・・・。
「せっかくこんな景色のいいところまで来たっていうのに、絶景ポイントを拝まずして帰るなんて、ありえないわよ!」
と、強く主張する園子。
「でも、けっこうキツイみたいよ。ほら、男子のグループもみんなレギュラーコースに向かってるみたい・・・」
「情けないわねー、多少の山登りくらい、何だっていうのよ」
「でもほら、今日は楽しく親睦を図るのが目的なわけだし・・・敢えてキツイとこを選ばなくっても・・・」
「何言ってるのよ!・・・この季節にここへきて、アレを見ないで帰れるもんですか!」
蘭の反論は、ことごとく園子に封じられてしまった。
で、「アレって何?」と聞いても、人差し指を口元に立てて片目をつぶり、「それは行ってのお楽しみ」と、教えてくれない。
こういうときの園子は何を言っても折れてくれないのがわかっているので、蘭はもう一人のメンバーの弥生と顔を見合わせて、「しょうがないわね」と苦笑した。
結局この「たっぷりコース」を選択したのは、蘭たち3人だけだったようで、コースに入ってから他の生徒達を見かけることはなかった。
ハイキングコースとして整備されているとはいえ、コンクリートで舗装されているわけでもない山道。
ところどころに大きな石が転がっていたり、折れた枝が横たわっていたり、大きな水溜りが残っていたりと、悪路が続く。平坦な街中の歩道を歩きなれている蘭たちには、確かに少々キツイ道程であった。
それでも、気の合う友人と一緒に自然の宝庫ともいえるハイキングコースを歩くことが、楽しくないはずがない。
ところどころの急な勾配に、少々息が上がったりもしたが・・・コースに沿って流れる小川も、その小川沿いに生えている珍しい水生植物も、目に鮮やかな白樺の木も、すべてが新鮮で、美しくて。コースのキツさなど忘れてしまうくらいに、その道のりは楽しいものだった。
そして1時間近く歩いたところで、「たっぷりコース」の一番の見所である、園子お勧めの噂の絶景ポイントにたどり着く。
そこは一段と小高い岩場になった場所で、眼下の谷を一望に見渡すことができるのだ。
そこに広がっていたものとは・・・。
「見て!・・・桜!」
軽く息を弾ませながら、弥生が驚きの声を上げた。
その指差すほうを見渡せば、谷を挟んで反対側の山肌一面には、弥生の言葉通り何百本という桜の木が生い茂っている。
「・・・すご・・・」
「うん、綺麗・・・」
それは街中でいつも見慣れたソメイヨシノではなく、山桜のようだったが・・・ソメイヨシノよりは幾分色の濃い薄紅色の花が、まるで絨毯のように眼下に広がっている。
東京ではとっくに散ってしまった桜を、こんな場所で、しかもこんなに咲き誇っている景色を見られるなんて・・・。
その美しさと雄大さとに圧倒され、蘭は言葉を失っていた。
「・・・このコース選んでよかったでしょ?」
園子の言葉に、蘭も弥生も、大きく頷いた。
※※
しばし桜の絶景を堪能した蘭たちは、わずかな休息をとったあと、名残を惜しみながらその場所を離れた。
いつまでもこの景色を見ていたいのは山々だが、集合時間に遅れるわけにはいかない。
往路で1時間弱の時間がかかったということは、疲れが出てくる復路はその1.5倍は時間を見ておいたほうがいいだろう。
現に、かなりのペースで小石や小枝の散らばった山道を進んできた蘭たちの両足には、本人達の自覚もないままに、かなりの疲労が蓄積されていた。
「・・・ねえ、園子・・・。わたし達以外に、ここにハイキングに来てる人って、いないのかな」
帰り道。
往路よりはゆっくりとしたペースで3人並んで歩きながら、蘭の心にふとした疑問が沸いた。
この「たっぷりコース」を選んだのは、確かに帝丹高校では蘭たち3人だけ。だが、それ以外の一般のハイカーがいても、おかしくなはないはずなのに。
来るときはすっかりはしゃいで突き進んでいたため、まるで気にも留めなかったのだが・・・よくよく考えてみれば、人っ子一人見当たらない、うっそうと茂った林の中の静か過ぎる山道に、存在するのは3人の女の子だけ。
「そういえば、帝丹生以外の人って、全然見かけないわね。まあ、今日は平日だし・・・それにハイキングのシーズンにはまだちょっと早いから」
「バスを止めた駐車場にも、他に車、なかったよね」
園子と弥生の言葉に、蘭の中で小さな不安が首をもたげた。
人の気配のない山道。小鳥のさえずりや小川なせせらぎは耳に届いていたが、それがかえって不気味な静寂を作り出しているように感じられる。
その中を、たった3人でとぼとぼと歩いているという今の状況・・・これって、大丈夫なの?
そんな蘭の不安げな表情に気づいたのか、園子は蘭の背中をばしっと強く叩くと、いつものように明るく笑った。
「もーっ、何の心配してるのよ!ちゃんとしたハイキングコースなのよ?熊でも出るんじゃないかとか思ってるわけ?」
「そういうわけじゃないけど・・・何となく、気味が悪くない?」
「相変わらず怖がりねえ。あんた本当に空手部のキャプテンなのー?・・・あ、わかった!新一君が一緒にいないもんだから、不安になってるんでしょ!」
「な・・・っ、ち、違うわよっ!」
園子の言葉に、蘭は顔を真っ赤にして両手を勢いよく振った。
人をそんな・・・親からはぐれた子供みたいに、言わないで欲しい。
なんとなく不安を覚えてしまうのは、新一がいるとかいないとか、そんなこととは関係ない、はず、なのだから。
・・・けれど。
(・・・確かに、新一が一緒にいたら・・・こんな不安なんて、感じない、かも)
子供の頃から、よく二人でいろんなところを探検して歩いた。・・・暗いところやしんと静まり返った不気味なところは苦手なはずなのに、なぜか新一と一緒だったなら、安心していられた。
もしこの場所に、新一がいたなら。
・・・きっと、新一と一緒だというただそれだけで、蘭の心がこんなにもざわつくことは、なかったのかもしれない。
(・・・もうっ!・・・今日は新一のことは考えないって、決めたはずなのにっ!)
園子がへんなことを言うものだから、頭の中から追い出したはずの新一の顔が、鮮明に甦ってしまったじゃない。
端整な顔立ちに、深い色の瞳。唇の片端をちょっとだけ上げた、自信たっぷりの不敵な微笑み。蘭の心を捉えて離さない、大好きな人の顔。
それがそばにあったなら、どんなに心強いだろう・・・。と、そう思ってしまったじゃないの・・・。
「・・・あれ?」
自分の考えに没頭して、下を向いて歩いていた蘭は、隣を歩く弥生の上げた声にはっと我に返った。
「どうかした?弥生ちゃん・・・」
「向こうから、誰か歩いてきてない?」
弥生は、蘭たちの進行方向を指差した。確かに人影が一つ、こちらに近づいてくるのが見える。
「なーんだ、ちゃんと他にも人がいるじゃないの!」
園子が、蘭の不安を吹き飛ばすかのように明るく笑った。・・・が、蘭の不安は、その人影を目にした途端、急激に増した。
「・・・でも、おかしくない?こっち、帰り道だよ?」
「きっと捻くれモノの登山者なのよ。みんなと同じ道を行くのは嫌だ、とか思ったんじゃないの?」
「・・・そうかなあ・・・」
「声かけてみようよ!もしかしたらこの先の見所とか、教えてもらえるかもよ」
「えっ!・・・そ、園子!」
蘭の制止などまるで気にもせず、園子は「すみませーん!」と手を振りながら、山道を登ってくるその人影に向かって駆け寄っていってしまった。
人影・・・背格好からして、中年の男の人のようだが、その男が園子に声を掛けられて足を止める。
園子の後を追うようにして男の方へと駆け寄りながら、蘭の胸が早鐘を打ちはじめた。
「待って、園子!」
その人に、近づかないほうがいいような気がする。
なぜだかわからないが、何かが蘭にそう警告していた。
(・・・あの人、おかしい!)
ここはハイキングコースだ。山歩きをするところだ。
なのにあの人は、なぜかスーツにネクタイ姿なのだ。・・・しかも、山歩きの必需品ともいうべき荷物も持たず、手ぶらで登ってきている。
そして近づいてくる蘭たちの姿に注がれる男の目を見た瞬間に、蘭の「近づかない方がいい」という思いは確証に変わった。・・・その目に、殺気が宿っているのだ。
「園子っ!だめ!その人から逃げてっ!」
え?と不審そうな顔で、園子が蘭を振り返る。
その瞬間に、男がスーツの内ポケットから何かを取り出した。
木漏れ日の光がきらりと反射して、それが刃物であることに気づいたときには、もう男はそれを頭上に振りかざし、男に背を向けてしまった園子に向かって、突進してきていた。
「・・・園子っ!」
男が刃物を振り下ろすよりも早く、蘭は園子に飛びついていた。
勢いよく園子の身体を押し倒し、そのまま園子を抱えるようにしてコース脇の小さな崖下へと転がり落ちる。背の高い草が生い茂っていてくれたおかげで、落下の衝撃はほとんどなかった。
道の上から、「くそっ!」という男の舌打ちが聞こえる。
「ら、蘭・・・!」
「大丈夫、園子!?」
「う、うん・・・けど、何なの?あの人・・・」
とりあえずお互いに怪我のないことにほっとした蘭だったが、その耳に、今度は高い悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあああああっ!」
「・・・弥生ちゃんっ!」
蘭と園子が崖下へと逃れたせいで、コースの上にはもう一人の友人、弥生が取り残される格好になっていたのだ。男の攻撃目標が彼女に向いたのは当然のことだ。
「弥生ちゃん、逃げてっ!」
崖下からは姿の見えない弥生に向かって叫びながら、蘭は体勢を立て直すと、生い茂る草に掴まるようにしてその小さな崖を這い上がった。
「ら・・・蘭っ!」
「園子はそこにいて!」
振り向きもせずに園子に強い口調で言い置いて、蘭はもとのコースに飛び出した。
目に飛び込んできたのは、・・・恐らく数歩は逃げたのであろうが、腰を抜かして道にへたり込んでしまっている弥生の恐怖に青ざめた顔と、その弥生に刃物を振り下ろそうとしている男の背中。
反射的に、蘭は勢いよく助走をつけると左足で地面を踏み切り、男の後頭部に向かって飛び膝蹴りを放っていた。
がごっ!・・・と鈍い音がして、蘭の右膝が男の頭にめり込む。
・・・はず、だった。
(・・・え?)
去年の都大会では個人優勝。もうじき始まる今年の大会でも優勝候補ナンバー1と目されている、蘭の空手。その鋭い蹴りを、信じられないことに、この男は素早く身をかわして、避けてみせたのだ。
それも、蘭は男の背後から攻撃したというのに、まるで後が見えていたかのような、無駄のない動きで・・・!
攻撃目標を失った蘭は空中でバランスを崩し、へたり込んでいる弥生の上にかぶさるようにして落下してしまった。
(・・・やばっ!)
隙を作ってしまった・・・!
「きゃああっ!蘭っ!」
蘭の背後を見て、弥生が悲鳴をあげる。
蘭は咄嗟に弥生を抱えると、寝転んだ状態のままで地面の上を転がった。・・・一瞬前まで蘭と弥生がいた場所に、男の振り下ろした刃物が突き立てられる。
間一髪で凶刃を避けると、地面から男が刃物を抜こうとする隙に、蘭はなんとか体勢を立て直し、どんっ、と弥生を強く突き飛ばした。
少々乱暴な方法ではあったが、弥生を逃がすにはそれが一番手っ取り早い。突き飛ばされた弥生は小さく悲鳴をあげながら、ついさっき園子と蘭が転がり落ちた崖下へと消えていった。
コース上に残されたのは、刃物を構えなおして蘭に殺気を向けている男と、男とにらみ合うように空手の構えをとる蘭の、二人だけ。
園子や弥生にはためらいもなく刃物を振り下ろした男だったが、蘭には簡単に切りつけてこなかった。咄嗟に身をかわしたとはいえ鋭い膝蹴りをくらいそうになり、今また隙なく構えている蘭に対しては、不用意に切りかかることができないと判断したのだろう。
だが蘭もまた、男に対して攻撃を仕掛けることができずにいた。
あの背後からの攻撃をかわされたのだ。武道ではないにしろ、男が何らかの格闘技を身につけていることは間違いない。
「・・・くそっ!・・・何なんだ、お前は!?」
刃物を構えたままで、男が初めて口を開いた。
「それはこっちの台詞よ!どうしてわたし達を殺そうとするのよ!」
「うるせえ!・・・こんな山ン中をうろうろしてたお前らが悪いんだ!・・・オレの顔を見られた以上、生かしちゃおけねえ・・・3人とも、切り刻んでやる・・・」
なんとも理不尽な言葉である。
ハイキングコースを歩いていたというだけで、たまたま出くわしただけの男に、どうして殺されかけなければならないというのか。
(・・・顔を見られたから・・・ってことは、この人、きっと犯罪者だ。きっと警察に通報されたくないから、わたし達の口を封じようとしてるんだわ・・・)
それならば。
蘭は目の前の男から意識をそらさずに、崖の下で固唾を飲んでいるであろう二人の友人に向かって叫んだ。
「園子、弥生ちゃんっ!・・・すぐに警察に連絡してっ!」
さっと男の顔色が変わる。・・・やはりこの男、警察から逃げているのだ。
そして逃げ込んだはずの山の中で不運にも蘭たちと出くわしてしまい、蘭たちの口から自分の居所がばれるのを恐れて、口封じのために殺そうとしている、というところか。
目撃者を殺してまでも逃げおおせようとしているということは、この人の犯した犯罪は、殺人か、傷害か・・・どちらにしろ、凶悪犯だろう。スーツの内ポケットに刃物を忍ばせている時点で、それは間違いないと思われた。
「・・・だめっ!・・・携帯、圏外よ!」
崖の下から、園子の悲痛な声が届く。
蘭は唇を噛んだ。・・・が、もう一つの方法に思い当たり、再び叫ぶ。
「・・・だったら、携帯がつながるところまで走って!」
「ええっ!?」
「わたしがこの人を引きとめておくから!早くっ!」
蘭の言葉に、男がさらに殺気立つ。
「・・・小娘が、ふざけたこと抜かしやがって・・・!」
頭に血が上ったのか、それとも園子たちを行かせまいと焦ったのか、それまで隙なく蘭の様子を窺っていた男が、蘭に向かって攻撃をしかけてきた。
(大丈夫、よけられる!)
焦った挙句の直線的な攻撃。蘭は冷静に男の動きを見極めると、素早い身のこなしでその攻撃をかわした。
そしてそのまま無駄のない動きでステップを踏み、綺麗な弧を描いて回し蹴りを放つ。・・・だが、今度はこちらの攻撃が、さっと避けられてしまった。
お互いの攻撃がそれぞれ不発に終わり、男と蘭は再び向かい合う形で構えをとる。
「・・・蘭っ!?大丈夫なのっ!?」
がさがさと、崖下の草むらが揺れる。園子たちが登ってきているようだ。
「登ってこなくていいからっ!・・・下に降りて、警察呼んできて!」
「でもっ!あんただけ残して・・・」
「ここにいてもらうより、警察呼んできてくれたほうばありがたいのよっ!」
それは半分は園子を行きやすくするための口実だったが、半分は本当。・・・目撃者を全員を殺そうとしているこの男の手の届くところに、園子と弥生がいては・・・残念ながらそれは、今の蘭にとっては負担にしかならないことだった。
こうやって一対一で向かい合っていても、勝てるかどうか微妙な相手だというのに、園子たちを庇いながら戦うことなど、できそうにない。
それくらいなら蘭を置いて先に山を下り、とっとと警察に連絡してもらったほうが、蘭にとっても有難かったし、園子と弥生にとっても安全なのだ。
そんな蘭の気持ちを汲み取ったのか、崖を登ろうとしていた園子の動きがぴたりと止まる。
「・・・わかったわ。全速力で戻ってくるから、それまで絶対に負けちゃだめよ!」
「・・・うん!」
「弥生ちゃん、行くわよっ!」
草むらを掻き分ける音が、今度は斜面を下りていく。ここを降りれば、実はこのコースをショートカットして、元の道順に戻ることができるのだ。
「・・・くそっ!」
男は園子たちを追えない。蘭から意識をそらせば、間違いなく蹴りが飛んでくるのがわかっているのだ。
忌々しげな舌打ちが、蘭の耳を不快に打った。
「・・・小ざかしい真似しやがって・・・お前を殺してから後を追えば、同じことなんだよ!」
「そんな簡単に、殺されたりなんかしないわ」
「・・・うるせえ!死ねや、小娘!」
再び、男が突進してくる。
素早く左足で地面を蹴り、右に飛んでそれをかわす。
攻撃目標を失ってたたらを踏む男の側面に回り、バランスを崩した男の後頭部に渾身の力を込めて蹴りを叩き込む。
・・・が、またしても男は、蘭の蹴りをさっとよけてのけた。
(・・・また!)
蘭が体勢を立て直している間に、男のほうもナイフを構えなおしていた。
どうやらこの男、攻撃に関しては単調な動きしかできないようだが、他からの攻撃を上手く避けることには長けているようだ。つまり、逃げ上手なのである。
ということは・・・男の攻撃は避けることができそうだが、逆に蘭の攻撃も男には当たらないということだ。
再び、長い睨み合いが始まった。
一旦は焦って行動を起した男も、自分の攻撃が蘭に簡単に避けられてしまうのがわかり、次の出方を考えているようだ。
・・・時間が、かかるかもしれない。
そう思ったが、蘭にとってはそのほうが都合がいい。それだけ、園子たちがここから離れ、警察を呼ぶための時間を稼ぐことができるからだ。
困るのは男のほうだろう。きっと彼は、とっとと蘭を片付けて、園子たちの後を追いたいと思っているはずだ。
「ちきしょう・・・小娘が・・・」
搾り出すような皺がれ声が、蘭を罵倒した。
男の眼光に、蘭に対する殺意と憎しみが宿る。
そして男は、再度動いた。
今度は右手にナイフを持ち、それを大きく振り上げる。・・・上方からの攻撃に切り替えたようだ。
(・・・これも、よけられる!)
攻撃してくるスピード自体はそれほど速くはない。蘭は余裕を持って身をひるがえすと、男のナイフを避けて後方へと飛び退った。
・・・それが、失敗だった。
蘭は忘れていたのだ。
ここが道場などではなく、小石の散らばる山道であるということを。
後方を確認せずに不用意に飛び、そして無造作に着地することが、どんな危険を呼ぶのかということを・・・。
「!!」
右足首に、激しい痛みが走った。
蘭が着地したその場所には、拳大の、鋭角に尖った石が転がっていたのだ。・・・思いもかけない障害物を力いっぱい踏みつけてしまったその瞬間に、蘭の足首が悲鳴を上げた。
「・・・くっ!」
男に気取られてはいけない!
・・・それはわかっていたのだが、蘭は自分の顔が苦痛に歪むのを、抑えることができなかった。
そして、バランスを崩してしまった体勢を立て直すことも、もはや出来そうになかった。1時間に渡る山歩きのためにすでに疲労を蓄積させていた蘭の右足首は、この衝撃に堪えることができなかったのだ。
(・・・だめ!倒れたら、殺される!)
わかっていたが、もう、立ってはいられなくなって・・・蘭はうずくまるようにしてその場に崩れ落ちていた。
男がそんなチャンスを逃すはずがない。待っていましたとばかり、再びナイフを構えると、なんとか立ち上がろうとする蘭に向かって突進してきた。
「今度こそ、死にやがれ!」
罵倒とともに、蘭の頭上に振り上げられる鋭い切っ先。自分の命を奪おうとするその凶刃から、蘭は視線を逸らせない。
だめ!
さけられない!
そう思った瞬間に、脳裏に鮮やかに浮かび上がったのは、やはりあの人の顔だった。
(・・・助けて・・・新一っ!!)
心の中で、助けを呼んだ。
事件を追いかけて飛び回っている推理バカが、こんなところまで蘭を助けにきてくれるわけがない。・・・そう、わかってはいたけれど、こんな咄嗟のときに・・・それ以外の人の顔など、思い浮かぶはずがなくて。
新一・・・!
来てくれる筈などない、現れる筈などないとわかっているその人の名を、蘭の心は叫んでいた。
だがそのとき。
「・・・伏せろっ!蘭っ!!」
背後から、鋭い声が耳に響いた。
考えるよりも先に、蘭は反射的にその言葉に従って上半身を地面に伏せる。その頭上すれすれを、何かが勢いよく通り過ぎていった。
「ぐぎゃっ!!」と蛙が潰されたような悲鳴が聞こえ、その後どさっという、男が地面に倒れこむ音が響いた。
(・・・今の、声って・・・)
伏せた体をゆっくりと起こす。
恐る恐る男のほうを見れば、すっかり白目を剥いて大の字に地面に転がっていた。
そしてその傍らにはミネラルウォーターのペットボトルが変形して転がっている。どうやらこれが、男の喉元に命中したらしい。蘭の頭上を通り過ぎていったのも、きっとこれだろう。
・・・ということは。
これを、投げたか蹴ったかして、飛ばした人物がいるはずで。
その人が、蘭に「伏せろ」と指示を出してくれた人のはずで。
ゆっくりと背後を振り返り、そこに、思ったとおりの人物を見出して・・・蘭は、口元を両手で覆った。
視線の先に・・・新一が、立っていた。
「・・・新一・・・!」
どうして、ここに新一がいるのか、とは、そのときは思わなかった。
ただただ、もうだめだと思ったそのときに、心の中で助けを求めた人がこの場所にいるという、そのことが・・・蘭の胸に熱いものをこみ上げさせた。
涙でぼやける視界の中を、新一がゆっくりと近づいてくる。
「・・・新一ぃ・・・」
目前に迫っていた死の恐怖が消えうせたことと、新一がそこにいてくれたことに、蘭の全身に広がっていた緊張感がぷつんと途切れた。
怖かった。
もう、だめだと思った。
・・・なのに、新一が来てくれた・・・。
へたり込んだままぽろぽろと涙をこぼし始めたそんな蘭の傍らにしゃがみこむと、新一は蘭の頭をぽんと軽く叩き、まるで子供をあやすかのように優しい瞳で微笑んだ。
「・・・ちょっとだけ、待ってろよ」
そう囁くと、今度は倒れこんだ男のほうに向き直る。
「・・・ったく、手間かけさせやがって・・・。おい、目ぇ覚ませ!」
男の胸倉を掴んで上半身を引き起こし、ばしばしと両頬をはたく。
何度か同じことを繰り返すと、ようやく男は「うう・・・」とうめき声を上げて、意識を取り戻した。
「・・・お。起きたな?・・・高木刑事!犯人、確保しましたよ!」
新一の呼びかけに、わらわらと駆け寄ってくる何人かの人影。
蘭は新一の姿しか見えていなかったのだが・・・実は、高木刑事をはじめとする警察官達も、その場に駆けつけていたらしい。
戸惑いながら成り行きを見守る蘭の前で、新一に胸倉を掴まれたままの男に高木刑事が歩み寄り、その手にがしゃん、と手錠を掛けた。
「・・・坂上良治。殺人容疑及び殺人未遂の現行犯で、逮捕する」
さきほどまであれほど殺意をみなぎらせていたはずの男が、諦めたかのようにうなだれる。
2人の警察官にはさまれるようにして立ち上がらされ、うなだれたまま引きずられるようにして連行されていった。
「・・・助かったよ工藤君。・・・坂上にこの山に逃げ込まれたときは、正直長期戦を覚悟してたんだけど・・・」
男の後姿に視線を送りながら、高木刑事が並んで立つ新一に、ほっとしたように声をかけた。
新一は、そんな高木刑事にいつものように、にっと笑みを浮かべてみせる。
「いくらヤツが体力に自信があるといっても、道もない山中をいつまでも逃げ回るのは難しいですからね。この山には何本かハイキングコースがあるのはわかっていたんで、そのコース沿いに逃走するだろうとは思っていたんです。まあ、こんなに早く発見できたのは、運が良かったんでしょうけど・・・」
「とにかく、お礼を言わせてくれよ。・・・君の推理がなかったら、迷宮入りは確実だったんだから・・・」
「いえいえ」
「じゃ、僕はこれから坂上を本庁まで連行するけど・・・君はどうする?」
「僕はここで失礼します。警部によろしく」
「ああ。・・・えーと、蘭さん?大丈夫だったかい?」
ひとしきり新一と話をした後、高木刑事は地面に座り込んだままの蘭に視線を移し、気遣うように尋ねてきた。
茫然と二人のやり取りを聞いていた蘭は、いきなり話し掛けられ、慌てて「あ、はい!」とうわずった声で返事をする。
高木刑事は「よかった」と小さく笑ってから、先を歩いていった警察官達を追いかけていった。・・・その後姿を、蘭はこれまた茫然と見送った。
えーと。
何が、どうなってるの・・・?
さっきの男は、新一が追っていた事件の犯人だったってこと・・・?
新一は蘭の傍らで、同じように高木刑事を見送っている。
「・・・えーと、新一・・・?」
さきほどまでの涙も感動も、すっかり引っ込んでしまい、蘭は新一を見上げて瞳をぱちぱちと瞬かせた。
と、新一はその呼びかけにくるりと振り返り、蘭の正面におもむろにしゃがみ込む。そして蘭がどきっとするほど近くに顔を寄せ、蘭の瞳を覗き込んできた。
先ほどまで浮かべていた笑顔は、すっかり消えている。
かわりに新一の瞳に浮かんでいるのは、何ともくるおしく切なげな表情だった。・・・その深い色の瞳に間近から覗き込まれ、蘭の心臓が高鳴る。
「・・・あんま、心配かけさせんなよ・・・」
「・・・え?」
「あいつを追ってこの道を登ってきたら、血相変えて走ってくる園子と塚田に会ったんだ。あいつらを先に逃がして、オメーがあの男を食い止めてる、って聞いて・・・。何でそんな無茶すんだよ・・・」
けど、間に合って、よかった・・・。
そう言って新一は「はあ・・・」と深く息を付くと、そっと蘭の上腕部に両手をかけ、その身体をぐっと引き寄せた。そして戸惑う蘭の肩に、こつんと額を押し当てる。
どきどきする胸を押さえながら、蘭は自分の肩に乗せられた新一の髪に、そっと触れた。
「新一・・・心配してくれたの?」
「当たりめーだろ?・・・なんで園子たちと一緒に、逃げなかったんだよ」
「逃げても、追いつかれるかと思って・・・。そうしたら、園子も弥生ちゃんも危険だと思って・・・」
「けど、蘭ならわかっただろ?あの男・・・坂上が、ボクシングやってて手強い相手だってことぐらい」
「う、ん・・・。ボクシングかどうかまではわからなかったけど、強いってことはわかった。勝てないかもしれないって・・・」
「だったら、どうして!・・・いくら園子や塚田が無事に逃げられたって、オメーが無事じゃなかったら・・・!」
一瞬言葉を詰まらせて顔を上げると、新一はぐっと蘭を抱く手に力を込めた。
そして、苦しげに呟く。
「・・・オメーがあいつに刺されそうになってるのを見たときは、心臓止まるかと思った・・・」
その声に宿った真摯な響き。
蘭を抱きしめる腕の強さ。
ここまで全力で走ってきたのだとわかる、汗ばんだ身体。早い鼓動。
そのすべてが語っている。
この人は。
こんなにも、蘭を大事に想ってくれているのだ、と。
そして今更のように、他の誰でもない新一が助けにきてくれたことが嬉しくて、蘭はそっと新一の背中に両手を回した。
高木刑事の前では冷静な顔をしてみせていたけれど・・・実はこんなに血相を変えて、駆けつけてきてくれた人。
事件だ何だとずっとほったらかしにされていたことも、自分勝手な電話のことも、どうでもよくなっていた。
だって、事件にかかりきりになっていたって、ちゃんと新一は助けにきてくれたから。
蘭が心の中で呼べば、ちゃんと助けにきてくれたから・・・。
「・・・助けてくれて、ありがと。新一」
蘭が微笑むと、新一は蘭からすこしだけ身体を離し、蘭を見つめて照れくさそうに「・・・たりめーだろ・・・」と呟いた。
蘭を心配して戻ってきた園子と弥生が、遠くから呆れ顔でこのラブシーンを観賞していたことなど、二人は知らない。
※※
帰りのバスの中。
「・・・何で工藤がいるんだ?」
「たまたま事件の犯人追って、ここに来てたらしいぞ」
「・・・何で毛利をお姫様抱っこして連れてきたんだ?」
「毛利が足を捻挫して歩けなかったからだとよ」
「・・・何で一番後ろの席陣取って寝てるんだ?」
「ここ1週間ほど、ろくに寝てなかったそーだ」
「・・・何で、毛利の膝枕なんだ・・・?」
「・・・夫婦だからだろ・・・」
そして新しいクラスメイト達にも、「毛利蘭は工藤新一のもの」という認識が、しっかりとインプットされた。
泣いた男子生徒が何人いたのかは、不明である。
〜Fin〜