土曜日、大阪から蘭の見舞いと称して押し掛けて来た服部平次と、その幼馴染でこちらは本当に蘭の見舞いにやってきた遠山和葉は、「工藤んとこに泊めてもらうで」と、さも当然といった顔で宣言してのけた。
てっきりいつものように毛利探偵事務所に泊まるものだと思っていた新一が「はあ?」と聞き返すと、「何ゆうてんねん。毛利の姉ちゃんが入院中やのに、おっさんとこ泊まったかてしゃーないやろ」との返事。
・・・つまり、蘭がいなければ、夕食もろくに食べさせてもらえないから・・・というのが、理由らしい。
「・・・ってことは、何か?オメーらの晩飯、まさかオレに作らそうっていうんじゃねーだろーな・・・」
「心配せんでもええよ、工藤君!・・・台所貸してもろたら、アタシが美味しいもん作ったげるさかい!」
「だったら、おっちゃんとこでも同じことじゃねーか」
「相変わらずつれないやっちゃなー。ええやないか。どうせ部屋余ってんのやろ?」
・・・確かに、部屋は余っている。それも、くさるほど。
だが、余っているからといって、使える状態なのか、というと、それはまた別問題。
何しろ、疑う余地もなく自分の生まれ育った自宅であるというのに、新一がこの家に人目を憚らずに自由に出入りできるようになったのは、つい4日前のこと。当然それまでは、住む人のない無人の屋敷だったわけで、とりあえず自分の使う寝室とリビングあたりは使えるようにしてあるが、他は無人だった頃のままに扉を開けてもいないのだ。
「・・・自分の寝る部屋は自分で掃除しろよ・・・」
「まかしといて!あたし、掃除は得意なんよ。平次の部屋かていっつもあたしが掃除してんねんもん。なー?」
「オレが頼んでるわけやないで。お前が勝手にやってるだけやんか」
「何やの、その言い方!・・・別にええよ。工藤君のうち、あたしが寝る部屋だけ掃除するから。平次は平次で、勝手に掃除しい」
「ちょー待てっ!嘘や嘘・・・和葉ちゃん、頼むわ〜」
「調子ええんやから」
(・・・今晩くらい、ゆっくり寝たかったんだけど・・・)
人知れずため息をついて、新一はそんなことを思うのだった。
組織壊滅後のもろもろで、ここ3日ほどはほとんど睡眠時間がとれていない。・・・さらに、これまで電話連絡のみであった新一がようやく警視庁に顔を出すようになったためか、毎日のように目暮警部からのお呼び出し・・・それが嫌なわけではもちろんないが、せっかくの週末・・・ゆっくり身体を休めようと目論んでいたというのに。
この関西コンビが泊まるとなると、当然、(これまで毛利家でたびたびあったように)騒がしい夜になることは間違いないだろう。
そして案の定、
「よっしゃ、工藤!今夜はとことん語り明かすで〜っ!何しろむっちゃ久しぶりやからな、でっかなった・・・あ、いや、戻ってきたお前とゆっくり話すんのは!」
などと、嬉しそうに大声で叫んで、新一の肩に手をかけてくる平次。
「・・・3日前に、十分話しただろーが・・・」
そう、あの事件の夜に。杯戸病院の待合室で。
「・・・せやから、『ゆっくり』てゆーてるやんか。あん時はいろいろバタバタしとったからな!」
(いや、だから、オレはゆっくり寝たいんだよ・・・)
・・・と言ったところで、聞いてもらえそうにないのはわかりきっているので、もう言う気にもならないのだが。
この二人と一緒に一晩を過ごすことに、何とも言えない嫌な予感を覚える新一なのだった。
※※
そして夕方。
食料の買出しを終え、3人は工藤邸に到着した。
夕飯作りを和葉が一手に引き受けたため、結局は手の空いた新一と平次が客間の掃除を担当することとなり、かなり大雑把ではあったが一応人が寝泊りできる空間を2つ作り上げる。
和葉の手料理はなかなかの出来で、男二人の舌と胃袋を満足させた。
愉しい・・・というか、騒々しい食事を終え、順番に風呂に入ることにする。「シャワーでいいよ」と新一は主張したが、「この寒い季節に、ちゃんと暖まらな風邪引くやんか!それに、シャワーだけやったら疲れも取れへんよ!」と和葉に主張され、これまた数ヶ月の間使用していなかったバスタブにお湯がはられることになった。
新一の嫌な予感が現実のものとなったのは、夕食後のひと時・・・平次を風呂へと送り出した直後のことだった。
「平次、先に入ってきてええよ」
「ん?ほな、そうさしてもらうわ」
「ちゃんと肩まで浸かって、ゆっくり入ってくんねんで?」
「・・・わかってるがな」
タオルと着替えを片手に、平次がリビングから姿を消し、その場に残されたのが新一と和葉の二人きりとなったときに・・・その瞬間は訪れた。
そう、新一と二人きりになった途端に、和葉の表情がすっと変わったのだ。
「・・・あんな、工藤君」
まるで、この時を待っていましたと言わんばかり。
それまでの明るく楽しげだった表情は、まるで消しゴムで消し去ったかのように綺麗になくなってしまい、代わりに現れたのは・・・しごく真面目な、かつ、厳しい視線。それが、まっすぐに新一に向けられていた。
「・・・何?」
思わず新一が身構える。
考えてみれば・・・コナンとしてはかなりの面識があるため、この時間まで何の違和感もなく普通に会話をしてきたのだが、「新一」が和葉とまともに会話を交わしたことは、実はほんの数回しかない。
さらに言えば、和葉が「コナン」に話し掛けるとき・・・それは、小学生の子供に対して話し掛けていたのであり、自分と同い年の男に対する向き合い方ではなかったわけで。
こうしてあらたまった形で和葉と差し向かいで話をするのは、実は初めてのことなのだ。
そうしてわずかな緊張を見せる新一に、和葉はその眼差しに力を込めて、上目遣いに新一の顔を覗き込んできた。
「あたしな、今日は工藤君に、どうしても聞いとかなあかんことがあんねん」
だから、どうしても新一の家に泊まりたかったのだ、と和葉が言う。
てっきり平次の方が、新一の家に泊まることを主張したのだとばかり思っていた新一は、ちょっと意外な思いがした。・・・つまりそれだけ、その「聞きたいこと」とやらは、和葉にとっては重要だということで。
「・・・オレに答えられることなら」
「答えられることに決まってるやん。・・・工藤君しか答えを知らんことなんやから」
「・・・」
「・・・工藤君、・・・なんでこんなに長い間、蘭ちゃん待たせなあかんかったん・・・?」
その目に、隠しようのない非難を込めて。
重々しくそう訪ねてくる和葉に、新一は言葉を失った。
「・・・工藤君は平次の親友やし、蘭ちゃんも工藤君のこと大好きやって知ってるから、あたしも工藤君とは仲良うしていきたいと思てんねんよ。けど・・・どうしても、これだけは聞かしてもらわな、納得できへんねん」
「・・・納得、ね・・・」
「うん。今日、お見舞いに行ったとき、蘭ちゃんむっちゃ幸せそうやった。工藤君が帰ってきたてゆーだけで、こんなに違うもんなんやなーって、しみじみ思ててん。けど・・・そやからこそ余計に、あたし、工藤君のこと許せへんて思てしもたんよ。事件で大変やったんやって平次はゆうてたけど、そやからゆうて、何でこんな長いこと・・・あんなに工藤君のこと好きやった蘭ちゃんのこと、放っとかなあかんかったん・・・?」
「・・・・・・」
確かにそれは、新一にしか答えられない問いだった。
が、同時にそれは、真実を口にすることが出来ない問いでもあった。
和葉の言い分は、よくわかる。
新一がコナンとして実はずっと蘭のそばにいたことを、平次は知っていたし、蘭も知った。が、知らないままの人間から見てみれば、確かに新一のしていたことは、自分の都合で蘭を待たせつづけるという身勝手な行為でしかなかったわけで。
蘭の友人として、蘭のことを自分のことのように心配していた和葉が新一に向ける、怒りも憤りも不信感も、ごく当然のことなのだと新一には思えた。
(・・・放っておいた、わけじゃねーよ・・・)
と、そう主張したい。
自分はいつだって、蘭のそばにいたし、蘭のことを一番に考えてきた。・・・たまに(いや、かなり頻繁に)事件や推理に夢中になってしまい、ついついそちらを優先させたことはあったが、それでも、放っておいたわけじゃない。
そしてそのことは、和葉も認めているはずだ。・・・何しろ今日、蘭の病室で和葉自身が「コナン君て何よりも蘭ちゃんが一番大事って感じやん」と言い放っていたのだから。
だが、彼女にとっては「新一」と「コナン」は別人であり、いくら「コナン」が蘭を大事にしているのを目の当たりにしていたとしても、それは「新一」ではなく、あくまでも「コナン」の話。
その事情を知らせずに、放っておいたわけじゃない、といくら主張したところで、和葉が納得してくれるとは思えなかった。
「・・・黙ってたかて、わからんよ。工藤君、答えてや」
言葉を探せずに黙り込む新一に、和葉は尚も詰め寄る。
「工藤君は知ってたんやろ?蘭ちゃんがどんなに寂しい思いしてたか。・・・あんなに工藤君のこと想てる蘭ちゃんを放っておいても、工藤君は全然平気やったてことなん?」
もちろん、知っていた。
そばでずっと、見ていた。
蘭の涙など、絶対に見たくなかったというのに・・・何度、その泣き顔を見てきたか。しかもそれを流させているのは、他ならぬ自分自身。
いつもは強がっていたくせに、時折ふっと見せる、寂しそうな顔。・・・それを、和葉も見ていた。
だからこそ、新一に対して、憤りを覚えているのだと・・・わかる。
何しろ新一自身でさえ、あの頃の自分に対しては怒りを覚えているのだから。大切な蘭を泣かす、とんでもない男であった自分自身に対して・・・。
「・・・オレは・・・」
知らず、新一は和葉の真剣な眼差しから逃れるように、俯いていた。そして、搾り出すように呟く。
「・・・平気なはず、ねーだろ・・・。あいつを泣かせてるのをわかっていて、平気だったはず・・・」
「そやったら、なんで!?いくら事件で大変やったからって、時々帰ってきたげることぐらい、できたはずやろ!?・・・工藤君が時々平次とはおうてたこと、あたしちゃんと知ってんねんで!?」
「それは・・・」
再び言葉に詰まり、新一は内心で舌打ちする。
自分のことをどこでも「工藤」と呼んでいた平次を、このときほど蹴り飛ばしてやりたいと思ったことはなかった。おそらく和葉に対し、「工藤におうてくるわ!」などと宣言して自分に会いにきていたのであろう。
和葉はさらに言い募る。
「・・・工藤君が帰ってきて、蘭ちゃんのためにはよかったと思てるよ。けどな、・・・やっぱあたし、工藤君のこと信用できひんねや。こんな長いこと平気で蘭ちゃんのこと放っておいた人やったら、また蘭ちゃんのこと置いて、どっか行ってしまうんやないかって・・・!」
「ええかげんにしとけや、和葉」
第三者の声が、和葉の言葉を遮った。
二人が同時に振り向くと、濡れた髪を白いタオルでくるんだパジャマ姿の平次が、リビングの戸口に立っていた。・・・鋭い視線を、和葉に向けながら。
「平次・・・。は、早過ぎんで・・・お風呂からあがってくんの・・・10分くらいしかたってないやん・・・」
「工藤には工藤の事情っちゅーもんがあんねや。お前が口出しすることとちゃう」
厳しい口調に、和葉が怯む。
「・・・けど・・・」
「工藤かて、好きで毛利の姉ちゃんのこと放っといたわけちゃうで。・・・そのことは、姉ちゃんかてよーわかってる」
「・・・・・・」
「工藤を信用するとかせーへんとか・・・それは姉ちゃんが決めるこっちゃ。お前は黙ってればええねん」
「もういいよ、服部・・・」
事情を知る平次が自分を庇ってくれているのはわかったが、唇を噛み締めて俯いてしまった和葉を見ていられなくて、新一は平次の言葉を遮った。
平次は、事情をわかっている。だから、和葉に責められる新一の心情を思い、新一の代わりに和葉に反論してくれているのだろう。
が、その逆に・・・和葉は蘭のことを思い、蘭のために、蘭の代わりに新一を責めているのだ。
その責めは、新一がきちんと受け止めなければならないものではないだろうか。
放っておいたわけではない。
平気だったわけではない。
だが、蘭を待たせていたのは事実。蘭に寂しい思いをさせて、蘭を泣かせていたのは・・・紛れもない事実であり、それは明らかに、責められるべきことなのだから。
それに、和葉が必要以上に蘭に肩入れする気持ちも、わからないではなかった。
和葉が平次に対し、ただの幼馴染以上の感情を抱いていることは、新一も知っていた。・・・なにしろ彼女の態度は非常にストレートであり、強がってみせてはいても、平次に対する思いはその態度ににじみ出ているのだから。
だからこそ、同じように高校生探偵として活躍する新一が、同じく幼馴染である蘭を、事件を理由にしていつまでも一人で待たせつづけているという状況を、自分のことのように考えて心を痛めて見ていたのだろう。
もし、平次が自分を置いて行ってしまったら・・・。自分に当てはめてそう考えずにはいられない気持ちは、新一にもわかっていた。
だからこそ和葉は、新一の口から納得のいく理由が聞きたいのではないか。
そう思えば思うほど、新一は目の前で自分を責めているのは、和葉ではなくて蘭なのではないか、という錯覚さえ覚えそうになる。
事情を知った蘭は、決して新一を責めなかった。
ただ静かに笑って、コナンが新一であったことが嬉しかったのだと、そう言ってくれた。
そんな蘭の優しさに・・・知らず、甘えていたのだ。
「・・・和葉ちゃん」
平次の言葉に言い返すことができずに俯いている和葉に、新一は静かに声をかけた。・・・和葉はゆっくりと顔を上げ、黙って新一を見つめ返す。
「・・・蘭を長い間待たせてしまったのは、服部が言うように、オレなりの事情があった。わりーけど、それは、君には言えない」
きっぱりと言い切る新一に、和葉の眼差しに再び非難の色が浮かぶ。
とりあえずそれを無視し、新一は言葉を続けた。
「ただ・・・オレのことが信用できないっていう和葉ちゃんの言い分も、わかる。だけど、蘭の友達で服部の幼馴染でもある君には、わかって欲しいんだ」
「・・・何を?」
「オレは、もう二度と、蘭を一人にはしない」
あの日、心の中で誓ったことを、新一はきっぱりと口にしていた。
それは和葉に対して言っているというよりも、この場にいない蘭に向かって宣言するつもりで。
「・・・絶対に?」
「・・・ああ。もう二度と、蘭を泣かせたりしねーって、約束する。だから、とりあえずは・・・信用してもらえねーかな」
和葉の猫のような大きな瞳が、かすかに揺らぐ。
新一の言葉を、ゆっくりと咀嚼するように、じっくりと吟味するように。
・・・やがてその瞳に浮かぶ色をふっとやわらげると、和葉は「・・・しゃーないなあ」と笑いながら呟いた。
「・・・二つだけあたしの言うこと聞いてくれたら、それで工藤君が蘭ちゃんを泣かせ続けてたこと、チャラにしたげるわ!」
「・・・二つ・・・?」
一つではなく二つ、という条件のつけ方に、ちゃっかりとした関西人ならではの気質を見て、新一は思わず苦笑を漏らす。平次までもが「なんで一つやのーて二つやねん!」と突っ込みを入れていた。それに対しては「ええやんか、二つあんねんもん」と言い返しておいて、和葉は新一にあらためて向き直る。
「一個目は、今工藤君がゆうた言葉、明日、蘭ちゃんにも同じことちゃんとゆうてあげてや!」
「・・・了解。もう一つは?」
「工藤君が蘭ちゃんのこと、どう思てるか・・・今ここで、聞かしてほしいねん」
「・・・は?」
一つ目は、まあ、わかる。
蘭のことを自分のことのように心配している和葉のこと、今の新一の言葉を蘭にも伝えてやりたいと思ったのだろう。・・・新一にしても、きちんと蘭に言ってやらなければならないと思ってはいるので、それは、いい。
が。
「・・・なんで?」
二つ目。
なんで、オレが、こんなとこで・・・服部と和葉ちゃんに向かって、んなこっぱずかしーことを言わなきゃならねーんだ・・・?
それに対して和葉は、さも当然といった顔で言う。
「なんでって、工藤君、あたしに信用してもらいたいんやろ?・・・それゆうてくれたら、工藤君の気持ち、信用したげるよ?」
にっこり。
平次までがにやにやと、「そやなあ。人から信頼得よ思たら、はっきり口にすんのが一番やでー」などと面白そうに言ってくれる。
(・・・こいつらは・・・)
さっきまでは、まるで新一と蘭の代理戦争とでもいうように、それぞれの気持ちを代弁して言い争っていたくせに・・・何なのだ、この意気投合っぷりは。
言うまでは許さない、とばかり、じりじりと新一に詰め寄ってくる和葉。
その迫力に屈するかのように、新一は視線をあらぬほうへと泳がせながら、しぶしぶと口を開いた。
「・・・好きだよ」
その小さな声は、和葉の耳にきちんと届いているはずだというのに、それだけでは納得できないらしく、和葉はなおも、「・・・それだけ?」と首をかしげて新一の顔を覗き込む。
それだけ・・・って、それ以上、何を言えってんだ?
蘭に対する思いは・・・確かに、その一言程度では言い表せないのではあるが、それを全部言えというのか・・・?
蘭のことを、どう思っているかと聞かれれば。
誰よりも、大切だと思っている。
誰よりも・・・何よりも、大事な存在。
「好き」という言葉などでは言い表せない、強い想い。
「・・・蘭は、今のオレにとって・・・酸素みたいなもんかな。ないと、生きていけない」
和葉に言うというよりは、自分の中で気持ちを整理するかのように、新一はぽつりと呟いていた。・・・そして、言ってしまった後にはっとする。平次と和葉が、「ほー・・・」と感心したように、新一を見つめているではないか。
顔が赤らむのが、自分でもわかった。
「だーーーーっ! くそっ、何でオレが、オメーらにこんなこと言わなきゃならねーんだよっ!」
自分の言葉がたまらなく恥ずかしくなって、誤魔化すように大声で叫んでしまう新一に対して、和葉は嬉しそうに笑って言い放つ。
「その名台詞も、あした蘭ちゃんにゆうてあげてな!」
・・・和葉ちゃんの「お願い」・・・いつのまにか、二つが三つに増えてないか?
新一は赤い顔のままで、心の中でひそかに呟くのだった。
※※
「・・・へえ、和葉ちゃん、そんなこと言ってたんだ」
「ああ。・・・ったく、まいったよ・・・」
ベッドの上に上半身を起して座り、くすくすと笑う蘭と、そのそばのパイプ椅子に腰を下ろし、憮然とした表情でそう答える新一。
翌日の日曜日の朝、新一は蘭の病室に一人で見舞いにきていた。
新一が和葉との約束を無事に果たせるように、と、関西組は1時間ほど遅れてやってくることになっている。つまり、その1時間のうちに、蘭に伝えるべきことを言ってしまえ、ということらしい。
どうしてこんなに長い時間、蘭を待たせなければならなかったのだ・・・と、和葉に詰め寄られてしまったことを蘭に報告すると、蘭は面白そうに笑って、冒頭のように言うのだった。
「それで? 新一、なんて答えたの?」
まさか、薬で小さくなってたからだって、正直に言ったの?・・・と、なおも楽しそうに笑う蘭。
「・・・言うわけねーだろ・・・」
「だよね。でも、それで和葉ちゃん、納得してくれた?」
「・・・いや」
和葉を納得させるために、新一がさせられた二つ(・・・あとで三つに増えていたが)の約束。
一つは、蘭に対し、「もう二度と一人にはしない。もう絶対に泣かせたりしない」と伝えること。
もう一つは和葉に対し、新一の蘭に対する気持ちを告白すること。・・・おまけで、それを蘭にも告げること。
・・・和葉のことだ、きっとあとから蘭に対し、「工藤君、ちゃんとゆうてくれた!?」と確認するに決まっている。
ま、これもいい機会だと思ってはいるのだ。
本当ならば、新一の姿に戻って・・・まっさきに、蘭に言ってやらなければならなかった言葉の数々。
長い間、正体を隠していたことを謝って。
ずっと待たせて・・・寂しい思いをさせてしまったことを、謝って。
そして、もう二度とどこにも行ったりしないと、蘭を泣かせるようなことは決してしないと、そう誓おうと、・・・本当は、そう思っていた。
それができなかったのは、タイミングを逃したというか・・・新一が真実を話す前に、すでに蘭はコナンの正体を知ってしまっており、今更一からきちんと説明してきちんと話をするという状況ではなくなってしまっていたからだ。
蘭はあれから、何も言わない。
コナンが新一であったことが嬉しかった、と言ってくれただけで、詳しい事情を聞きたがったりはしなかった。まあ新一が忙しくて、ゆっくりと二人で話をする時間をとれなかったせいもあるのだろうが。
だが、いつかはきちんと話さなければならないと、思っていた。
なぜ新一が、コナンになってしまったのか。
なぜ頑ななまでに、蘭に正体を隠しつづけたのか。
蘭のそばにいて、蘭の気持ちを知っていながら・・・なぜ、ずっと何も言ってやれなかったのか。
今でこそ、「新一はコナンとしてずっとそばにいた」ことを、蘭は知っている。
だが、あの長い喪失の時、蘭がどんなに苦しい思いをしていたか、切ない思いをしていたか、・・・その原因である新一のことを、どんなに憎らしく思ったことか。
蘭にそんな辛い時期を過ごさせてしまったのは間違いなく自分であるのだから、蘭はもっと新一を責めてもいいはずなのだ。
昨夜、和葉に責め立てられて、あらためて新一はそう思っていた。
蘭は責めてもいい。なじってもいい。・・・怒っても、いいのだ。
だが、蘭はそうしない。
静かに笑って、何も言わずに新一を許してくれた。
その優しさは、少しだけ新一の居心地を悪くさせる。
・・・そう、和葉に責められて思ったのだ。自分が、きちんと蘭に謝っていないということが、自分の中にある蘭に対する後ろめたさを完全には払拭できずにいる原因である、と。
「・・・あのさ、蘭」
あらたまった口調で名前を呼ぶと、蘭は「ん?」と首をかしげて新一の顔を覗き込む。
同じことを同じ距離で昨夜、和葉にされたときには、まるで平気だったというのに、相手が蘭に変わったというだけで、こんなに心拍数が上がるのはなぜだろう。
わずかに生まれた動揺を読み取られないようにと平静を装いながら、新一は言葉を続けた。
「オメーさ・・・怒ってねーのか?」
唐突に「和葉との約束」を果たすのもおかしな気がして、まずは様子見とばかりにそう話題を振ると、蘭は不思議そうな顔をする。
「怒るって・・・何を?」
「いや、だから・・・ずっとオメーを待たせてたこととか・・・黙ってたこととか・・・」
「・・・え?」
新一の言葉が一瞬理解できなかったのか、ぽかんとした表情を浮かべる蘭。
そしてそのあと、「ああ、そっか」と呟くと、ぽん、と両手を打った。
「わたし、怒らなきゃいけなかったんだ!」
「・・・は?」
「新一が新一の姿に戻っちゃってたから、嬉しくてすっかり忘れてたわ!そうそう・・・ずっと正体隠してたこと・・・コナン君に怒らなきゃって思ってたんだ!」
「・・・・・・」
忘れてた・・・って、それって、すでに怒ってねーとか、思わねーか・・・?
「それで?・・・わたしが怒ってたら、どうするの?」
まったく怒っているようには見えない、どちらかというと愉しそうな顔で、そんなこと言われてもな・・・と思いつつ、新一はぽりぽりと頬を掻く。
「・・・そりゃ、謝るよ・・・」
「・・・じゃ、わたしが怒ってなかったら、謝らないつもりだったんだ」
「あ、いや・・・そういう意味じゃなくてだな・・・」
意外な切り返しに、今度はしどろもどろになる。・・・気障だカッコつけだと言われながら、蘭を相手にすれば名探偵も所詮こんなものである。
「怒ってねーのかどうか、一応確認しただけだよ。・・・今日は、ちゃんと謝ろうと思ってきたから・・・」
「いいよ、謝らなくて」
またまた意外な蘭の言葉に、さらに今度は思わず目を見開いてしまう。
「・・・は?」
「だって、あんなに必死になって正体隠してたってことは、ちゃんと理由があったんでしょ?・・・だったら謝らないでよ」
「・・・蘭・・・」
「ずっと待たされたことだってね、そのときは辛かったけど・・・新一だって、辛かったでしょ?わたし、けっこうコナン君の前で泣いちゃったし。だから、お互い様。そりゃ、もっと早くに言ってくれればよかったのに、って思うけど、でも、いいんだ。新一がずっとそばにいてくれたことに、かわりないんだもん・・・」
そう言って、少し顔を赤らめて俯く蘭。
(・・・あんまり、オレを甘やかすなよ・・・)
その優しさに、ついつい甘えてしまいたくなる。
蘭に対する愛しさがこみ上げてきて、新一の口からはするりと「約束の言葉」が出ていた。
「・・・約束するよ、蘭。もう絶対に、一人で待たせたりしねーから・・・オメーを泣かすようなことは、しねーから・・・」
新一の言葉に、蘭ははっと顔を上げ、新一の顔をまじまじと見つめる。
そしてその後、はにかむように下を向いて、小さく答えた。
「・・・うん。覚えとく」
優しい響きのその言葉は、じんわりと新一の胸に沁みていった。
そして、和葉とのもう一つの約束を果たそうと、新一が口を開きかけたそのとき。
「・・・ちょっと平次、押さんといてーな!今、ええとこなんやから!」
「あほ!そんなでっかい声出したら、聞こえるやないか!」
「平次の声のほうがでっかいわ!」
(・・・全部聞こえてるよ・・・)
どうやら病室の外で聞き耳をたてていたらしい、大阪組の声。
新一と蘭は顔を見合わせて、同時に吹き出していた。
(・・・もう一つの約束は、そのうち、だな)
病室のドアを開けてやろうと椅子から立ち上がりながら、新一は心の中で呟いていた。
〜fin〜