今度の日曜日に、トロピカルランドへ連れて行ってやるから・・・と、そう蘭に約束したのは、3日前。
(・・・やっべーーーっ!)
目覚まし時計は、あと1分で午前9時。
蘭を迎えに行くと約束した時刻は8時半。・・・目を覚ました時点で、新一の30分以上の遅刻はすでに確定的だった。
彼女の退院祝いのデートだから、今日は自分が蘭を迎えに行くのだと決めていた。
事件に駆り出されるか課題に追われるか推理小説を読みふけってしまうか・・・理由はどうあれ、土曜日の新一が夜更かしをしないわけがない、と決め付けてくれている蘭は、「心配だから、わたしが迎えに行こうか?」と申し出てくれたのだが、ちゃんとしたデートのときくらい、きちんとエスコートしてやりたくて。
だからその申し出をきっぱりと断って、「オレが迎えに行くまでに、ちゃんと準備しておけよ?」と、にやりと笑ってカッコつけて宣言してあったというのに。
・・・蓋を開けてみれば、蘭の予想通りの結果となってしまっている。
「・・・くそっ! なんで目覚ましが鳴らねーんだよっ!」
自分の寝坊の原因を目覚まし時計に転嫁してみても、その目覚ましをちゃんとセットしなかったのは新一なのだから、結局は自業自得である。
大急ぎで顔を洗い、髪の寝癖もなんのその、ジャケットを片手に家を飛び出そうとしたそのときに。
(・・・げっ!)
門扉をがしゃりと開く音が家の中まで聞こえてきて、新一はますます慌てた。
恐らく、いつまで待っても新一が迎えにこないので、待ちきれなくなった蘭のほうから迎えにきてしまったのだろう。
(・・・ったく、30分くらい、おとなしく家で待ってろって!)
寝坊を棚に上げて自分勝手なことを心中で呟いてから、新一はスニーカーをひっかけて玄関のドアを勢いよく開ける。
「・・・わりぃ! これから出ようと思って・・・って、え?」
お怒りモードの蘭が仁王立ちしているとばかり思っていた新一は、扉を開けるなり真っ先に謝罪と言い訳を口にして・・・そして、次の瞬間に。
扉の前にいた人物に、飛び掛るようにして首っ玉に抱きつかれてしまったのだった。
「・・・ぐえっ」
あまりに勢いよく飛びつかれてしまったため、一瞬窒息しそうになって、踏み潰されたカエルのような声を出してしまう。
・・・が、飛びついてきた女性のほうは、そんなことにはお構いなし。
「新ちゃん、会いたかったわーっ!!」
新一の耳元で大声で歓声を上げるなり、彼女はぎゅううっと、新一を絞め殺さんばかりの力でますます強く抱きついてきてくれる。
そして彼女の背後には、諦め混じりに彼女の行動を黙認して立っている、長身の男性が一人。
「・・・なんであんたらが、ここにいるんだよ・・・」
がっくりと脱力する新一の目の前の二人組。
言わずと知れた、この館の「本来の主」のご帰還であった。
※※
「・・・何しにきたんだ?」
出鼻をくじかれた新一が、顔中に『迷惑』と太マジックで書いたような仏頂面で低く訪ねると、有希子は心外と言わんばかりに息子の鼻先に人差し指を突きつけた。
「あら、ご挨拶ね。愛しの一人息子がようやく元の姿を取り戻したんだもの。そのお祝いをしようと思ってかけつけた両親に対して、何よ、その言い草は」
「何言ってんだよ。母さん、先週も帰ってきてたじゃねーか」
「あのときは灰原さんが変装したコナンちゃんを迎えに小五郎ちゃんのところに行っただけで、またすぐにアメリカに戻らなくちゃいけなかったんだもの。大きくなった新ちゃん
とはゆっくり会えなかったから・・・優作もやっと原稿の目途がついたっていうし、1週間くらい、こっちでゆっくりしていこうと思って」
悪びれもせずににっこり笑う母親に、内心げんなりとため息をつく。
(・・・だいたい、オレが元に戻ってからもう3週間以上たってるんだぜ? 愛しの一人息子が無事に元に戻ったのを祝ってやろうって割には、随分とごゆっくりじゃねーか)
売れっ子作家である父の優作が、そうそう自由に時間を作れる立場でないことはよくわかっているが、「心配かけたけど、無事に元に戻ったから」と電話で報告したときも、
優作からは「それはよかった」の一言だけ。(もちろん、有希子は大騒ぎしていたが)
それが新一への、彼なりの信頼の表れだと思っているし、この距離感が自分たち親子にはちょうどいいとも思っているので、そんなことをとやかく言うつもりはない。
そうではなくて・・・。
(自分たちの都合に合わせて、連絡もなしに帰ってきやがって・・・こっちにはこっちの都合があるっつーの)
有希子とのやりとりの間にも時間は無常に過ぎてゆき、腕時計をちらりと見れば、もうすでに9時半過ぎ。・・・確実に1時間の大遅刻である。
「わりーけど、オレ、ちょっと出かけてくっから!」
「え、ちょっと新ちゃんっ! せっかく母さんたちが帰ってきたのに、それはないんじゃない?」
「バーロ! 人の都合も考えねーで勝手に帰ってきやがって・・・オレにだって予定があるんだよっ!」
「だあって、いきなり帰ってきてびっくりさせようと思ってたんだもん」
「・・・勝手にやってろ」
いつまでもこの能天気な母親の相手をしている場合ではない。
嫌がらせのようになおもすがりついてくる有希子の腕を振り切って、新一は玄関を飛び出した。
・・・だが、そのとき。
「・・・新一。出鼻をくじくようで悪いんだが」
ずっと苦笑交じりに二人のやりとりを静観していた優作が、まったく「悪い」とは思っていない、いや、逆に笑いを含んだ面白そうな口調で、新一を引き止めた。
「何だよ、父さん。オレ、ほんとに急いでんだけど」
「・・・お前の行動は、どうやら遅きに失したようだな。・・・今更急いでも、結果は同じだと思うんだが?」
「・・・へ?」
相変わらず謎掛けのようなことを言ってくれる父親に、怪訝な顔を向けてから・・・優作の視線が門扉のほうへ向けられていることに気づく。
何の気なしにそちらを見れば。
(・・・げっ・・・)
そこには今度こそ本当に、自宅からここまで急いできたのか肩で息をしている蘭が、門扉に手をかけて中に入ってこようとしているではないか。
確かに優作の言うとおり、今更急いでも無駄、というわけだ。新一は肩を落とし、深く深く、諦めのため息を吐き出した。
「・・・え? おじさまとおばさま・・・帰ってらしてたんですか!?」
敷地内に足を踏み入れて、そこに優作と有希子の姿を認めた蘭が、目を丸くして驚いている。
「やあ、蘭君。久しぶりだね」
「まあ、蘭ちゃん! よく来たわね! さ、入って入って!」
両親ともに、息子に会ったときよりも蘭に会ったときのほうが嬉しそうな顔をしているように見えるのは・・・新一の気のせいでは、ないだろう。
蘭ちゃんがいつもと様子が違うことに気づく新一。
連絡せずに遅刻したことを怒っているとばかり思っていた。
でもほんとは蘭ちゃんは、心配と不安でいてもたってもいられなくて駆けつけたのに、全く平和そうに両親と話をしている新一を見て、安心するやら腹が立つやらで、優作と有希子の手前どんな顔をしていいかわからずにいた、っちゅーことで。
※※
大幅修正予定!!
キッチンへ行った新一に、蘭が口を利いてくれない。
てっきり遅刻したことで怒っていると思っている新一が謝り倒すが、やがて蘭が泣き出してしまい、さらに慌てる。
「・・・バカっ! またどっか行っちゃったんじゃないかと思って、心配してたんだからっ!」
「人の気も知らないで、のん気に笑ってるからっ!」
「・・・もうどこにも行かねえって、言ったろ?」
「わかってる」
「・・・じゃあ・・・」
「頭ではわかってるけど、気持ちはそう簡単に変わらないよ・・・。新一はもうわたしを置いていったりしない、って思ってるけど、でもやっぱり不安になるの。またいなくなっちゃったんじゃないか、って・・・」
「・・・なあに、新ちゃんったら! ダメじゃないの、蘭ちゃんを待たせたりしちゃ!」
リビングに場所を移し、親子3人でテーブルを囲んで座るなり、さっそく有希子が新一に噛み付いてきた。
「・・・あのなあ・・・オレが急いで家を出ようととしたのを、引き止めたのは誰なんだよ」
「だって新ちゃん、これから蘭ちゃんとデートだなんて、一言も言わなかったじゃない。 言ってくれたら私だって、引きとめたりしなかったわよ・・・」
「・・・言えるか、んなこと・・・」
思わずぼそりと呟いた新一の言葉は、幸い有希子の耳には届かなかったようだ。
知らなかったこととはいえ、自分の行為が蘭を待たせてしまったことに繋がったのだとわかり、有希子は恐縮して少し小さくなっている。
・・・当の蘭はといえば、キッチンでお茶の用意をしていた。
唯一工藤家の人間でない蘭が、正しくこの家の人間であるはずの3人に対してお茶の準備をする・・・というのもおかしな話なのだが、「おばさまたち、長旅でお疲れでしょ? わたしやりますから、休んでてくださいねっ!」と、おさんどんを買ってでたのだ。
「・・・新一。蘭君との約束の時間は、何時だったんだ?」
新一と有希子の会話には口を挟まないことにしているのか、それまで黙っていた優作が、有希子が小さくなって口をつぐんでしまったのを見て、おもむろに口を開いた。
「・・・8時半」
「私達がここに着いたのは、確か9時過ぎだったと思うんだが」
「・・・・・・」
「・・・有希子がお前を引き止めていなくても、遅刻に変わりはなかったんじゃないのか?」
さすがに母と違って簡単には誤魔化されてくれない優作にあっさりと突っ込まれて、新一は小さく首をすくめた。
「あ、ひどーい、新ちゃんっ! 自分が寝坊したくせに、母さんたちのせいにしようとしたわねっ!?」
「・・・母さんが引き止めなかったら、30分の遅刻ですんでたんだよ・・・」
我ながら、その言い訳はおかしくないか?・・・とは思うのだが、素直に両親の言い分を認めるのも悔しくて、新一はぶつぶつと呟いてそっぽを向くのだった。
どうも今日は、朝から何事も予定通りに運んでくれない。
目覚まし時計に裏切られ(・・・自分でセットし忘れただけなのだが)、予定外の来客があり(・・・というか、単に自宅に帰ってきただけなのだが)、楽しみにしていた蘭とのデートは「久しぶりにおじさまとおばさまが帰ってきてるのに、行けるわけないでしょ
!?」という蘭の主張により、キャンセル。
寝坊に遅刻という失態を、本来なら蘭に対してだけ謝罪して言い訳すればよかったところなのに、こうして両親に首根っこをつかまれて責められている始末。
だがしかし、要は、昨夜きちんと目覚ましをかけて・・・というより、推理小説を読みふけった挙句に夜更かししたりせずにちゃんと寝てさえいれば、予定通りに家を出ること
ができていたわけで・・・そうすれば両親に引き止められることもなく、ちゃんと蘭とデートもできたわけだから、すべての元凶は結局、新一だということになるわけで・・・。
つまるところ新一の両親への「不服申し立て」は、完全なる八つ当たりでしかないのである。
「・・・ねえ、蘭ちゃん、遅くない?」
不貞腐れたままに新一が黙り込んでしまったために、会話のなくなったリビング。
もちろんマイペースな両親たちは、息子の不機嫌などどこ吹く風でのんびりと構えているのだが・・・しばらくしてから、有希子がぽそりと呟いた。
確かに、新一たちがこのリビングで話し始めてから、もう30分近くが経過している。
お茶の準備をするだけにしては、蘭が戻ってくるのは少し遅すぎるようだ。
「・・・ちょっと見てくるよ」
自分が様子を見に行こうと立ち上がりかけた有希子を制して、新一は素早く立ち上がった。
・・・両親にかき回されたせいで、実はまだ大遅刻について、蘭にきちんと謝っていなかったのを思い出したのだ。
※※
リビングを出て廊下を横切り、キッチンの扉を少しだけ開けて中の様子を確認する。
自分の家のキッチンなのだから、遠慮せずに入ってしまえばいいのだが・・・中にいるはずの人物に対しての後ろめたさが、新一の行動を「おっかなびっくり」したものにさせていた。
(・・・なかなか出てこねーのは、もしかして、けっこう怒ってるからだったり・・・しねーよ、な・・・?)
さきほど両親と玄関先で揉めていたときに入ってきた蘭の様子を、思い出す。
優作に指摘されて蘭を見つけたとき、彼女は肩で大きく息をしていた。
空手部で日ごろからハードな運動しているはずの蘭の体力では、ちょっとぐらい走っても、あんなに大きく息が上がったりはしないだろう。
ということは、自宅からここまで・・・蘭は、かなりのスピードで駆けつけてきたということ。
・・・新一はそのことに、かすかな違和感を感じていた。
自慢じゃないが、新一が蘭との約束の時刻に遅れるのは、何もこれが初めてのことではない。
ひどいときには2時間近くも待ちぼうけを食らわせてしまったことすら、あるのだから。・・・お互いにそんな経験をよく覚えているので、二人で出掛けるときに外で待ち合わせをすることは、ほとんどなかった。
自宅が近いので、外で待ち合わせる必要がないといえばないのだが、約束の時間から多少遅れてもいいように、どちらかがどちらかの自宅に迎えにいくのが、いつものパターン。
それは、コナンになる前・・・つまり、まだ蘭とはただの幼馴染だった頃からの、暗黙の了解だった。
そして反省という言葉は知っていても、学習という言葉を知っているのかどうかはなはだ疑問の残る新一の遅刻が繰り返されるたびに、蘭は呆れたり、怒ったり、諦めたようにため息をついたり・・・彼女の行動パターンは
いくつかあったのであるが、こんな風に、慌てて駆けつけてきたことなど、これまでにはなかったはずなのだが・・・?
新一に声をかけるよりも早く、優作と有希子の姿を見つけて驚いてしまった蘭の表情からは、「新一に対して、今何を思っているのか」を読み取ることはできなかった。
もっとも、常人よりかなり優れているはずの新一の推理力は、蘭に関することに対してだけは、いつもほとんど役には立ってくれない。
だから、恐る恐る、扉を開ける。・・・蘭の様子を、伺うように。
キッチンのガスレンジでは、白いケトルがしゅんしゅんと小気味のいい音を立てている。
その手前のダイニングテーブルには、蘭が準備したのだろう・・・4つのコーヒーカップが綺麗に行儀よく並んでおり、その横には丸型のティープレスと、ドリッパーを乗せたコーヒーサーバーが置かれていた。
あとはお湯が沸くのを待って、注ぐだけ・・・という、状態のようだ。
だが・・・肝心の、蘭の姿が見えない。
「・・・蘭?」
扉の外から呼びかけてみても、返事がない。
どうやらキッチンにはいないようである。
(・・・火をつけっぱなしにして、どこ行ったんだよ・・・)
長年、毛利家どころか工藤家の台所までも預かっている蘭らしからぬその行為に、新一は軽く眉を顰めた。
・・・どうやらすでにお湯は沸いているようなので、慌ててガスレンジに近寄り、火を止める。
工藤家のキッチンにあるケトルは、お湯が沸いたら「ピーーーッ!」と大きく音の鳴る、笛吹きケトルのはずなのだが・・・注ぎ口の蓋が開いているので、音がしなかったようだ。
(・・・このまま放っておいたら、空焚きになっちまうじゃねーか)
これまた、蘭らしからぬ失敗。
たまたま新一が様子を見に来たからいいようなものの・・・。
ふう、と小さく息をついて、新一はケトルを右手で取り上げ、蘭が用意したのであろうティーポットにお湯を注ごうと、ダイニングテーブルのほうに向き直った。
・・・と、その時・・・視界の隅で、何かがもぞもぞと動いていることに気づく。
もぞもぞ、もぞもぞと・・・キッチンの壁際の床の上に、丸くなってうずくまっているのは・・・。
「・・・ら、蘭・・・!?」
冷蔵庫と食器棚の影に隠れるようにして、うずくまっている蘭の背中が見え、驚きのあまり新一は、熱湯の入ったケトルを危うく取り落としそうになってしまった。
「な、何やってんだよ、そんなとこで・・・」
新一の声に、蘭の背中がぴくりと跳ね上がる。
が・・・跳ね上がりたいのは、こっちのほうである。
姿が見えないと思って油断していたせいもあるのだが、まるでかくれんぼをするかのように、必死になって身体をちぢこませている蘭の姿を見つけて、新一は心臓が飛び出しそうになった。
数秒かかって何とか気を取り直し、ケトルをテーブルの上に置くと、うずくまったまま立ち上がろうとしない蘭のそばに近寄ろうと、足を一歩、踏み出す。
その途端、
「・・・こ、こないでっ!」
「・・・は?」
・・・こちらを見ようともしないで、蘭が新一の行動を強く拒絶した。
わけがわからずに眉を顰めていると、
「・・・こ、コンタクト、落としちゃったの!」
「・・・はあ?」
「踏まれたら嫌だから、出てってよっ!」
「あ、ああ・・・って、あ、いや、探すの手伝うけど・・・?」
「いいからっ! わたし一人で探すから、しばらく外に出ててっ!」
焦ったような蘭の言葉の勢いに押され、新一はすっかり面食らってしまった。
蘭がそこまで強く拒絶する以上、下手に手を出さないほうがいいのかもしれない。・・・そう思って、「あ、ああ・・・じゃ、外で待ってるけど・・・」とぼそぼそと呟きながら、踵を返そうとして・・・思い出す。
「・・・って、何言ってんだ? オメーの視力、両目とも1.5じゃなかったのかよ」
つい最近まで、1年近くも同じ家に住んでいて・・・蘭がコンタクトをしているところなど、見たこともない。
そのありえない理由に一瞬とはいえ納得しかけた自分に呆れながら、新一は丸められた蘭の背中を不審げに見やった。
だが蘭は、自分の言葉を撤回しようとしない。
「・・・か、カラーコンタクトよっ!」
「・・・嘘付け。さっきのオメーの目、別に色変わってなかっただろーが!」
「う・・・だ、だから、その・・・」
「・・・何わけのわかんねーこと言ってんだ・・・?」
しどろもどろになってしまった蘭の様子にさらに眉を顰め、新一は大股で蘭のそばまで近づいた。
蘭はなおも「だから来ないでってば・・・」と新一の行動を止めようとしたが、構わずにすぐ隣にしゃがみこむ。
「・・・蘭?」
「・・・・・・」
俯いて、新一の顔を見ようとしない蘭の顔を、下から覗き込もうとすると・・・。
「・・・やっ! 見ないでっ!」
蘭はくるりと身体を反転させて、新一に背中を向けてしまった。
・・・ここに至って、ようやく新一は気づく。
蘭の声が、かすかに掠れているのだ。・・・さきほどは焦ったようにキツイ口調だったので、思わず誤魔化されてしまっていたのだが・・・明らかに、この声は・・・?
「蘭・・・泣いてんのか?」
「なっ・・・泣いてないわよっ!」
皮肉なことに、「泣いてない」と否定するその声で、新一は確信してしまった。・・・間違いなく、蘭は泣いていた。
突然入ってきた新一に泣いていることを知られたくなくて、「コンタクトを落としたから近寄るな」と、咄嗟に嘘をついてしまったのだろう。
(・・・な、なんで・・・?)
わけがわからず、新一は狼狽した。
・・・本当に自慢ではないが、新一が蘭を泣かせたことなど、これまでに何度あったことか。
だがそれはすべて、ちゃんとした理由のあることだった。・・・少なくともその理由を、新一は正確に把握していたと思っている。
けれど、今日のこれは・・・?
「・・・蘭? オレ、何かしたか・・・?」
確かに1時間もの大遅刻をやらかして、デートをおじゃんにしてしまった。
だが、そんなことは付き合い始める前からよくあったことで(当時はもちろん、「デート」というしろものではなかったのだが)、
今日の遅刻も十分蘭の予想の範囲内にあったはずで、今更そんなことで、蘭が泣くとは思えなくて・・・。
「・・・なあ、蘭・・・?」
このままでは埒が明かないと思い、新一は自分に背中を向けてしまった蘭の肩を両手で掴み、ぐっとその身体を反転させた。
「・・・やっ!」
蘭は身をよじってそれにあがらおうとしたが、新一の力には敵うはずもなく・・・くるりと新一と正面から向き合う格好になる。
その瞳は。
・・・間違いなく、濡れていた。
「・・・何で、泣いてんだよ・・・?」
「・・・泣いてないもん・・・」
「あのな。そんな赤い目で言ったって、説得力あるわけねーだろ?」
「・・・・・・」
ぐっと言葉に詰まった蘭は、そのまま俯いてしまう。
(・・・って、だから! ・・・何で、泣いてるんだよっ!?)
本当に、わけがわからなかった。
・・・間違いなく自分が泣かしたのだとは思うのだが、その原因がわからない。
まさかとは思うが、本当に、1時間の遅刻で・・・たったそれだけのことで、泣いてるのか・・・? (1時間もの遅刻を、「たったそれだけ」と形容すること自体、間違っているとは思うのだが)
「なあ、蘭。言ってくれなきゃわかんねーだろ?」
「・・・・・・」
「・・・遅刻したせいか? だったら、悪かったよ・・・ちょっと寝坊しちまって、出ようとしたとこに母さんたちが帰ってきて・・・」
「・・・・・・」
「・・・なあ、蘭?」
なおも覗き込むようにして、蘭の顔を凝視する。
口を開けば、また泣きそうだとでも思っているのか・・・蘭は唇をきゅっと引き結んで、俯いたまま。
新一はさらに畳み込むように、蘭に顔を近づけた。
「・・・やっぱり、オレのせい・・・だよ、な・・・?」
「・・・違う」
ようやく蘭が、ぽつりと小さく答えてくれた。そのことに、とりあえずはほっとする。
「・・・じゃ、何でだよ」
「・・・ごめん。新一のせいじゃ、ないから・・・」
「・・・だから、何でだよ・・・言ってくんねーと、わかんねーだろ?」
新一のせいではない、と言われても、はいそうですか、と納得できるわけがない。
この状況で自分のせいでないなどと、誰が信じるというのか。
「ごめん・・・ほんとに、新一のせいじゃ、ないの。わたしが勝手に、不安になって、どうしようもなくなって、で、新一の顔を見たらほっとしちゃって、それで、安心したら、涙が止まんなくなっちゃって・・・」
蘭の言葉に、新一は意外な思いを禁じえなかった。
※※
元の姿に戻ってから、3週間余り。
確かに新一は、ずっと蘭を待たせ続け、蘭に寂しい思いをさせてきた。いくら「すべて終わった」と帰ってきて、無事想いを通じ合わせたのだとしても、「またいなくなるのでは」と、蘭が不安に思ったとしても、おかしくはない。
だがそれは、蘭が新一の正体を「知らなかったとしたら」の話なのだ。
蘭は、新一がコナンとしてずっとそばにいたことを、よくわかっているはず。・・・そして、コナンが新一だったことが嬉しかったのだ・・・と、そばにいて守ってくれていたことが嬉しかったのだ・・・と、そう、言ってくれたのだ。
そう。
蘭にとって、およそ1年に及ぶ「新一の不在」は、もう「不在」ではなくなっているはず。少なくとも新一は、蘭がそう思っていると認識していた。
だから新一には、蘭が何に対して不安を覚えてしまったのかが、まるでわからなかったのだ。
いつまでも床にしゃがんだままでいるわけにもいかず、蘭を抱き上げるようにしてキッチンの椅子に座らせる。
泣いていたのが見つかってしまった以上は、蘭ももう抵抗したりせず・・・大人しく新一に従った。
「・・・自分で言うのもなんだけどさ。オレの遅刻なんか、今にはじまったことじゃねーだろ?」
蘭と向かい合うように自分も椅子に座り、俯く蘭に言い聞かすようにして、本当に何の自慢にもならないことを、口にする。
「・・・蘭だって、それがわかってたから、自分から迎えにくるって言ってたんだろ? 何が不安だったんだよ」
「・・・わかんない」
「わかんない・・・って、あのなあ・・・。わかんねー理由で、ふつー、泣くか?」
わかんない、と言いたいのは、こっちのほうである。
二度と蘭を泣かせたりしない・・・と思っていたというのに、理由もわからずに泣かれてしまったのでは、どうしていいか・・・それこそ、わからないではないか。
だが、そんな新一の胸を突くようなことを、蘭は・・・ぽつりぽつりと、口にしだしたのだった。
「・・・だって、ほんとに自分でもわかんないんだもん。最初は、また新一、寝坊したんだな、って思ってたのよ。だから、気長に待ってようと思って・・・トロピカルランドのガイドブック見ながら、最初はどのアトラクションにしようか、とか考えて
たのよ」
「・・・ああ・・・ま、その通りなんだけど・・・」
「・・・そしたら・・・1年前のこと、思い出し、ちゃって・・・」
「・・・1年前?」
「前に、一緒にトロピカルランドに行ったときのこと。そしたら・・・急に、怖くなって・・・」
「・・・え・・・」
「・・・あのときは、新一は、小さくなっただけで、ちゃんと生きて帰ってきてくれたけど・・・今度こそ、何かに巻き込まれていなくなっちゃうんじゃないか、とか・・・またヘンな事件に首を突っ込んで、今度こそ帰ってこなくなっちゃうんじゃないか、とか・・・そんな風に、考えちゃって・・・
」
「・・・・・・」
「そしたら、不安で不安で、怖くて怖くて・・・いられなくなって・・・」
「蘭・・・」
新一は、言葉を無くしていた。
トロピカルランド。
そう・・・蘭が今回デートに選んだその場所は、すべての始まりの場所だった。
新一が組織の手によって毒薬を飲まされ、幼児化してしまい。工藤新一という存在をしばし手放さなければならなくなった、その、始まりの場所。
そして・・・およそ1年に及ぶ「大切な人の不在」という辛い状況を、蘭に強いることになってしまった、その最初の場所。
もしかしたら、戻ってきた新一との最初のデートに、蘭がトロピカルランドを選んだのは、この場所からすべてをやり直したいと無意識のうちに思ったからなのかもしれない。
元の姿を取り戻して、これですべてが終わったと思っていた。
これからは、蘭と、まったく新しい道を進んでいけると思っていた。
蘭も・・・以前のことなど引きずっていないのだと、勝手にそう思っていた。
だが、彼女の中では、まだ何も終わってなどいなかったのだ。
いくらコナンとしてずっとそばにいたのだといっても、新一があの日トロピカルランドで恐ろしい事件に巻き込まれてしまったことに変わりはない。
あの場所は今でも、蘭にとっては現在進行形で、「新一を失った場所」であり続けているのだ。
それは、蘭自身も自覚していない、無意識の思いなのかもしれない。
だからこそ、自分が不安になった理由が「わからない」と言っているのだ。
(・・・いつになったら、オレは蘭を泣かせたりしないように、なれるんだろーな・・・)
もう蘭を一人にしない。
絶対に蘭を泣かせるようなことはしない。
・・・そう誓ったのは、つい先日のことではないか。
こんなにあっさりと、蘭を不安にさせて・・・泣かせたりして・・・自分の情けなさに、腹が立つ。
「・・・ごめん」
結局は、そう謝ることしかできなくて、新一は小さく呟いて蘭を抱きしめていた。
「し、新一・・・?」
「・・・オレが、考えなしだった。オメーを不安にさせるなんて、彼氏失格だよな・・・」
「え、だって・・・新一のせいじゃ、ないのよ? 新一の遅刻なんて、いつものことだってわかってたのに、勝手に不安になってただけなんだから・・・」
急に抱きしめられて、蘭は困ったように新一の腕の中で身じろぎした。・・・いくら恋人同士になったとはいえ、こうして新一に抱きしめられることには、まだ慣れたわけではないのだ。
そんな蘭の様子に内心苦笑しつつも、新一はその腕に力をこめる。
「・・・何度言っても、なかなか信用してもらえないかもしれねーけど、さ。ほんとに・・・もう、黙っていなくなったりしないから。だから、頼むから・・・一人で泣かないでくれよ・・・」
「新一・・・?」
「来週、絶対にトロピカルランドに行こう、な。そして・・・最初から、やりなおそう。行って、無事に戻ってこよう」
それは、自分自身に対する、誓い。
あの歪められた時間によって、蘭の・・・いや、二人の心の奥底に沈みこんでしまった、「喪失」に対する不安と恐怖を払拭するための、儀式として。
自分たちが、今度こそ本当に・・・過去の事件に縛られず、前に歩いていくために必要なことなのだと、思う。
新一の言いたいことのすべては伝わっていないのであろうけれど、それでもその言葉に強い意志を感じたのだろう、蘭は新一の腕の中で、小さく頷く。
「・・・うん。来週・・・ちゃんと、待ってるから・・・けど」
「・・・ん?」
「・・・けど、そういうカッコいい台詞は、遅刻しないようになってから、言ってよね」
あまりにももっともな蘭の言い分に、新一は言い返すこともできず、苦笑するしかないのだった。
※※
「・・・で、蘭君は家に帰ったのか?」
「ああ。ゆっくりしてけって言ったんだけど・・・久しぶりに親子水入らずで話もあるだろうから、ってさ」
ったく、余計な気を使いやがって・・・と、ぶつぶつ溢しつつの新一の台詞に、優作は口元に苦笑を浮かべた。
とりあえず気分の落ち着いた蘭と一緒にリビングにコーヒーと紅茶を運び、穏やかなティータイムを4人で過ごした後。
「たまにはゆっくりと親孝行でもしたら?」と、小さく笑って、蘭はそうそうに自宅に引き上げていった。
普段親孝行ができないのは自分のせいではなくて、この自分勝手な両親たちが親孝行させてもらえるような場所にじっとしていないからだと思うのだが・・・親孝行云々はともかく、ゆっくりと両親と今後のことなど話したいという気持ちはあったので、苦笑いしつつも蘭を引きとめはしなかった。
といっても、せっかく日本に帰ってきたのだから、今のうちに会っておきたい友人がいる・・・と、帰国した当日ぐらいゆっくりすればいいのに、行動派の有希子は昼食後、そうそうに外出してしまい。
昼下がりの工藤家のリビングには、男二人が残されていた。
「・・・進級はできそうなのか?」
「ああ。いろいろ条件はつけられたけどな。期末テストもクリアしたし・・・あとは出席さえしてれば、大丈夫なんじゃないかな?」
まるで他人事のように報告する新一に、優作は再び苦笑。
「・・・とりあえず、無事にすんでよかった、とは言っておく。蘭君に怪我をさせたというのは少々いただけないが、な」
「・・・反省してるよ」
「女性は守るべき存在だぞ? ・・・それが大切な相手なら、なおさらだ」
「・・・わあってるよ。あいつは、オレが一生、守ってやるって決めてんだから・・・」
「・・・そういう台詞は、彼女を泣かさずにいられるようになってから、言うんだな」
「・・・って、まさか、見てたのか!?」
にやりと笑って言われた優作の言葉に、新一は信じられないとばかり、腰を浮かせた。
「・・・有希子がな。・・・かなり憤慨していたぞ? 女の子を泣かせるとは、男の風上にもおけない、とさ」
そのままキッチンに踏み込みそうになっていた彼女を止めてやったのだから、感謝しろ・・・とばかりの優作の口調に、うっと言葉を詰まらせる。
母の暴走を食い止めてくれたのだから、ここは確かに感謝すべきところではあるのだが・・・。
「・・・もう、絶対に泣かせねーよっ」
悔し紛れに叫ぶように言って、新一はぷいと視線を窓の外に向けた。
「それが宣言できるようになっただけ、お前も成長したということかな?」
以前であれば、照れのためか意地のためか、そういった本音は決して口にしようとはしなかった息子に対し、優作はどこか嬉しそうに、そう告げた。
〜Fin〜