Restart (1)
コナンがAPTX4869の解毒剤をその手に握り締めたのは、そろそろ冬も終わろうかという、まだ肌寒いけれども日を追うごとに確実に温かくなってきている、そんな季節のことだった。
彼の身体を幼児化した謎の組織をずっと追い続け、ようやくその全貌を掴んだのが、およそ1ヶ月前のこと。
組織の構成員の一人、ウォッカのコードネームを持つ男の身元を割り出すことに成功し、組織の大きな犯罪の動かぬ証拠を手中にしたコナンは、警視庁及び FBI に対し、自分の知ったすべての情報を明らかにすることによって、組織の本格的な掃討に乗り出させることに成功した。
これを、最後の戦いにする。
・・・そう決意し、コナンは工藤新一の名で裏から警視庁に掃討作戦の指示を出すことにより、組織のボスを始めとする多くの構成員の逮捕に大きく貢献した。
そして警視庁の特殊部隊が組織の本拠地に踏み込む際、彼は逮捕劇の混乱に乗じて組織の研究施設に潜り込み、かつてシェリーこと宮野志保が組織で作らされていた薬・・・APTX4869と、その膨大な研究データを手に入れたのである。
それは、『江戸川コナン』という仮の姿となったその日から、彼が常に追い求めていたものだった。
工藤新一という本来の自分を取り戻すために、何よりも必要だったもの。その薬とデータの収められたデータを哀に手渡すとき、自分でも身体が震えているのがわかった。
哀が解毒剤の調合に取り掛かってからは、時間の経過がやけに遅く感じられた。
そうそう簡単にできるものではないと分かってはいたが、研究の進み具合がどうしても気になって、毎日のように阿笠博士の家に顔を出した。
哀を急かせるつもりはなかったが、ただじっとしていることができなかった。
また、「世界的な犯罪組織を壊滅させた高校生探偵、工藤新一」としては、事後処理やらなにやらで結構忙しく、(といっても、姿はコナンのままなので、すべて電話でのやりとりになるのだが)FBI や警視庁とひっきりなしに連絡を取り合う必要があった。
そんなやりとりを、まさか居候先の毛利探偵事務所で行うわけにもいかず、最近は学校へ行っている時間以外のほとんどを、阿笠博士の家で過ごしていた。
そんな彼に、極めて嬉しくない情報がもたらされる。
『・・・組織の構成員について、逮捕もしくは死亡が確認された人物のリストが上がってきたんだが・・・君の気にしていたジンというコードネームを持つ男については、逮捕者リストにも死亡確認リストにも含まれていないようだな、工藤君』
目暮警部からの電話であった。
構成員のリストは組織のメインコンピュータのデータに含まれており、押収したそのデータから構成員の身元を割り出し、現在も警察がその捜索に当たっている。
コナンは目暮警部に対し、特に危険だと思われる人物・・・彼にとっては因縁深きあの男・・・ジンの捜索を、最優先で行うよう、強く要請していたのだ。
「死体も見つかっていないんですね?」
いつものように変声機を使った、工藤新一の声で返答する。
事件の立役者である新一が依然姿を現さず、やり取りは電話と電子メールのみ。・・・関係者の誰しもが、そのことを訝しがっているようだが、解毒剤が完成しない限りは如何ともしがたいのである。
『ああ、そのようだ。君に聞いていた話の通り、その男が組織の特に汚れた部分を担っていたのは間違いないようだな。我々も、その男をこのまま野放しにしておくのは危険だと思っている。全力で行方を追っているんだが・・・』
「わかりました・・・。僕のほうでも、もう少し調べてみます」
『おいおい、工藤君、くれぐれも危険な真似はしないでくれよ。それは我々警察の仕事・・・』
「ええ、わかってますよ。何かわかったら、必ず連絡しますから・・・」
彼が組織の情報をたった一人でかき集め、最後の局面になるまで警察には一言の相談もなかったことに関しては、目暮警部も少々不満があったらい。
「そんなに我々が信用できなかったのかね」と、何度も渋い声で溢されたことを思い出し、コナンは電話を切ってから肩をすくめて苦笑した。
(・・・んなこと言われてもなー・・・。証拠も何もない状況で話したところで、信用してもらえるとは思えなかったし・・・何より『工藤新一』は姿を現せなかったわけだし)
まあ、そんなことを今更言ってもはじまらない。
問題は、ジンの行方がいまだ掴めていないという、そのことなのだ。
・・・あの冷酷な、人の命を奪うことに欠片も呵責も覚えない、危険極まりない男。
新一を毒殺しようとあの薬を投与し、結果として命を奪われることはなかったものの、彼からまんまと本来の姿を奪っていった・・・あの男。
彼が生きてこの日本のどこかに潜んでいる以上、コナンと哀は相変わらず危険な状況にあると考えたほうがいいだろう。
組織の情報を警察に流したのが工藤新一であるということぐらい、あの男であれば知っていてもおかしくはない。さらにその情報の出所が、かつての組織の研究員、シェリーであるということも。
一番厄介な男に逃げられたものだ。
警察の落ち度だと思っているわけではないが、それでもコナンとしては、誰よりも恐ろしく、そして因縁の深いあの男に逃げられたことに、歯噛みしたい気分だった。
奴を捕らえないことには、すべてが終わったとは言えない。
唯一の救いは、ジンは工藤新一と宮野志保がAPTX4869によって幼児化していることを知らない、ということか。
そのことを唯一知っていた女・・・ベルモットことクリス・ヴィンヤードは、組織壊滅の際に自らの命を絶っていた。
そして彼女は工藤新一とシェリーが幼児化していることを、組織のボスにさえも漏らしてはいなかったらしい。当然、ジンもその事実を知らされていないはずだ。
つまり、「江戸川コナン」と「灰原哀」という仮の姿でいる限りは、自分達に切羽詰った危険はないといえるだろう。
(かといって、いつまでもこのままってわかにもいかねーし・・・)
コナンの脳裏に、居候先の幼馴染の顔が浮かぶ。
彼女をこれ以上待たせないためにも、できるだけ早く、すべてを終わらせてしまいたかった。
(なんとかジンの居所を探し出して、とっとと捕まえねーとな・・・)
哀の研究は順調に進み、ついに解毒剤完成の日を迎える。「いつ飲むかは、あなたの判断にまかせるわ」という言葉を添えて、彼女は解毒剤をコナンに手渡した。
「・・・ジンがどこに潜んでいるのかわからない今の状況で、 何の準備もなく工藤新一に戻ることは危険だわ。けれど実際にジンを追い詰めたときに、幼児化した身体のままじゃ・・・あなたが困るんじゃない? だから、服用のタイミングはあなたにまかせるわ。・・・くれぐれも、間違えないようにね」
コナンは神妙に頷いた。
今すぐに工藤新一に戻ることはできないが、「これでいつでも戻れるのだ」という安心感が、コナンに肩の力を抜かせた。
あとはジンを探し出し、とっ捕まえることができれば・・・今度こそ本当に、長かったこの事件は、終わるのだ。
(やっと戻れる・・・コナンじゃなく、工藤新一として、蘭のところに・・・)
近々訪れるであろうその日のことを思い、まだまだ予断を許さない状況であるというのに、無意識にコナンは小さく微笑んでいた。
***
「ただいまーっ」
努めて元気よく毛利探偵事務所の入り口のドアを開けると、アルコールの臭いがつんと強く漂った。
事務所の主はデスクに突っ伏して、高いびきをかいている。ビールの空き缶が散乱しているところをみると、また昼間っから飲んだくれていたらしい。
(・・・ったく。ちょっとは仕事しろよなー)
呆れ顔で小五郎を一瞥してから、事務所の中を見渡したが、もう一人の住人の姿は見えなかった。
(夕飯の支度でもしてんのかな?)
コナンがAPTX4869の解毒剤を受取ってから、3日が経過していた。・・・相変わらず、ジンの行方は掴めていない。
今日も学校帰りに阿笠博士の家に寄り、関係各所と連絡を取り合って今後の見通しや方針を相談してから帰宅したので、もう夜の7時を回っていた。
事務所の扉を閉めて、3階の自宅へと階段を登る。
(・・・あれ?)
自宅の玄関の扉には、鍵がかけられていた。
小五郎が事務所にいてコナンもまだ帰っていないというこの状況で、蘭が鍵をかけるということは、ほとんどないはずなのだが・・・。
コナンは自分の持っていた合鍵を鍵穴に差し込み、扉を開けると中に向かって声をかけた。
「ただいま、蘭姉ちゃん! 玄関、鍵かかってたよー」
「あ、ごめーん」
パタパタとスリッパの足音をさせて、制服の上にエプロンを纏った蘭が顔を出す。
「ちょっと学校の帰りに、変な男の人に後つけられちゃって・・・怖かったから鍵かけておいたの」
「変な男の人・・・?」
コナンはギョッとして、蘭の顔を振り仰いだ。
江戸川コナンでいる間は、当面の危険はないだろうと予想していたのだが、まさか・・・。
「ね、ねえ! その男の人って、どんな人だった? もしかして黒ずくめの・・・」
「ううん。ジーパンに青いトレーナーの、ひょろっとした感じの若い人だったよ。園子が睨みつけたら、おどおどして離れていったけど・・・」
「あ、そう・・・」
(・・・なんだ・・・脅かしやがって)
園子に睨まれたくらいでおどおどと離れていくような男が、ジンであろうはずがない。恐らく蘭か園子に目をつけた気の弱い男が、声もかけられずに後をつけてしまった、とか 、その類のことだろう。
それはそれで面白くない話ではあるのだが、とりあえず命の危険がどうこうという話ではなさそうなので、コナンはほっと息をついた。
そんなコナンに、腰に両手をあてた蘭がずいっと顔を近づけてくる。
「それよりコナン君、こんな時間までどこ行ってたのよ。小学生が遊んでる時間じゃないでしょー!」
「あ、ごめん・・・ちょっと博士んちに・・・」
「もおっ! ここのところ毎日じゃない! またゲーム?」
「う、うん・・・」
「ほんっとに子どもなんだからーっ」
ぶつぶつと小言を口にしつつ、蘭はまたパタパタとキッチンに戻っていった。
(・・・まさか、警察と打ち合わせしてました、って正直に言うわけにいかねーだろ・・・)
ははは、と苦笑しながらその後姿を見送ると、コナンはランドセルを背中から降ろし、リビングのテレビの電源を入れた。
キッチンからは、蘭の鼻歌が小さく聞こえてくる。
昨日久しぶりに新一の声で電話をかけたからだろうか、すっかりご機嫌のようだ。・・・その直前までは、彼女が何となく沈んでいたことを思い出す。
(もうすぐ、電話じゃなくて・・・ちゃんと本当の声を聞かせてやっからよ・・・)
まだ安心はできないの状況なので、声に出して期待させるようなことは言ってやれないけれど。
心の中で呟いて、コナンはキッチンに立つ蘭の後姿に、そっと眼差しを向ける。・・・と、そんなコナンの視線に気づいたかのように、蘭がぱっと振り返った。
「コナン君、何か言った?」
「な、何にも言ってないよ!」
「・・・ふうん」
コナンの心の声が聞こえたわけでもないだろうに、蘭には時々こういう勘が働くらしく、そのたびにコナンはどぎまぎさせられる。
以前にも正体がばれそうになったこと数度。そのたびに、阿笠博士や哀の協力で、なんとか誤魔化してきた。
おかげで最近では、コナンと新一は別人だと思ってくれているらしいが・・・。
・・・そんな苦労も、もうじき終わる。終わらせてみせる。
(ぜってージンの野郎を見つけ出して、とっとと新一に戻ってやる)
決意も新たに、もう一度蘭の後姿に視線を送ると・・・。
「あ、そういえばっ」
またしても蘭が勢いよくこちらを振り向いて、コナンはその場で飛び上がりそうになった。
(し・・・心臓に悪いぞ、この女・・・)
もっとも今回蘭が振り向いたのは、コナンの声が聞こえた気がしたから、というわけではなかったようだ。
エプロンを外しながらキッチンから出てくると、ちょっと慌てたようにぱたぱたとリビングを横切る。
「お醤油切らしてるの、忘れてたわ。ちょっとスーパーまで行ってくるね」
「え、今から?」
「うん。すぐそこだから。コナン君、お留守番しててね」
さっきまで、見知らぬ男に後をつけられた、と言って怖がって鍵までかけていたくせに、今度は一人で外に出かけていこうとする。コナンは慌てて蘭を追いかけた。
「蘭姉ちゃん、ボクも一緒に行こうか?」
「いいわよ、すぐそこだもん」
「でも、さっき変な男の人に後つけられたって・・・」
「ふふ、コナン君、心配してくれてるんだ。でも大丈夫よ。そんな人がいても、空手でやっつけちゃうから!」
(ったく、だったら最初っから、びびって鍵かけたりしてんじゃねーよ・・・)
結局、制服の上からコートを羽織って一人で出かけてていく蘭を、コナンは黙って見送った。
そのことを、数時間後には激しく後悔することになる。
***
(遅いな、蘭のやつ・・・)
コナンはぼんやりと見ていたテレビから視線をはずし、リビングの時計をちらりと見やった。
蘭が買い物に出てから、すでに30分以上経過している。
行き先はいつも利用している近所のスーパーだろうから、往復でも15分はかからないはずなのだ。
目的の商品が品切れで、別の店に向かったのだろうか。
一旦はそう思ったが、買い物の目的が醤油であったことを思い出し、コナンはその可能性を否定した。食料品を扱うスーパーが、醤油を品切れにさせることはないだろう。
・・・となると・・・。
コナンの胸に、嫌な予感が広がった。
リビングにある電話の子機をひっ掴むと、短縮ダイヤルを押して蘭の携帯にかけてみる。
・・・少しの間があってから、キッチンから聞きなれた着信音が聞こえてきた。
「・・・あのバカ、携帯くらい持ってけ!」
コナンは子機を叩きつけるようにして電話を切ると、3階の自宅を飛び出した。階段を降りて事務所の扉を勢いよく開け放つと、小五郎が「ヨーコちゅわ〜ん♪」と、見ているほうが恥ずかしくなるようなだらしない顔で、テレビにかじりついている。
「おじさん! 蘭姉ちゃんが帰ってこないんだ・・・ちょっと見てくるね!」
「あん? 蘭の奴、出かけてたのか?」
「うん、さっき買い物に。でも遅すぎるんだ!」
何時間も帰ってこないというならいざ知らず、高校生にもなった娘がたかだか30分ほど帰ってこないからといって、それほど心配することではないかもしれない。
近所の主婦に掴まって立ち話をしているのかもしれないし、他にも買いたいものがあって別の店まで足を伸ばしている可能性だって考えられる。
だが、後ろめたい心当たりのありすぎるコナンとしては、とても楽観的に構えている気にはなれなかった。
だいたい、腹をすかせたコナンと小五郎が待っていると分かっていて、あの蘭が自分の意志で寄り道をするとは思えないのだ。
「ほっとけほっとけ。じきに帰ってくるさ」
と、再びテレビに向き直ってしまった小五郎を残し、コナンは事務所を飛び出した。
辺りに注意を払いながら、全速力で街を走り抜ける。
すっかり暗くなっているとはいえ、車通りもあるし街灯も明るい。今夜は満月で、月明かりもある。スーパーまでの道のりはずっと大通り沿いなので、危険な場所があるとは思えないのだが・・・。
目的のスーパーにたどり着いてみれば、7時半を回っているこんな時間には客もまばらで、蘭がそこにいないことはすぐに判明した。
顔なじみの店員に蘭を見かけなかったか聞いてみると、もう20分以上も前に醤油の小瓶だけを買って店を出たという。
ここから自宅まではゆっくり歩いても5分。これはもう、帰り道に何か起こったのだとしか思えない。
が、ここまでの道のりに特に変わったことは何もなかったのだ。コナンは大きく舌打ちを残して店を飛び出し、大通りに出るとすばやく周囲を見渡した。
(・・・落ち着け! まだ何かあったと決まったわけじゃねぇ!)
必死に自分に言い聞かせるが、せり上がってくる不安は大きくなる一方だった。
学校帰りに蘭と園子をつけまわしたという若い男が、関係しているのだろうか。
しかし園子が睨んだ程度でおどおどするような男に、あの蘭が好き勝手を許すわけがない。それこそ空手技で撃退されているだろう。
とすると、他に考えられるのは・・・。
(・・・まさか、ヤツが・・・)
一番考えたくない可能性に行き当たって、コナンの背筋に冷たいものが流れた。
自分がコナンの姿のままでいることで、ジンの目を欺くことができると思っていた。だが、その考えは甘かったのだろうか。奴はとっくにコナンの正体を掴んでいて、毛利探偵事務所に狙いをつけていたのだろうか・・・。
(・・・いや、そんなはずはない・・・。ヤツはまだ、オレの正体を知らないはずだ・・・)
とりあえず、近辺を探し回るしかない。
コナンはここに来る時に通った道筋を逸れて、細い横道に駆け込んだ。
もし蘭が誰かに攫われたのだとしたら、どこかにその痕跡が残されているかもしれない。注意深く道路上を観察しながら、手がかりを探す。
(・・・ん?)
自宅へと続く大通りから一本裏の細い路地。
車通りも少ない薄暗い道端に、スーパーの小さなビニール袋が落ちていた。拾い上げて中を確認すれば、小さな醤油の瓶が1つ。
「・・・蘭・・・!」
・・・コナンは震える手で、その袋をぎゅっと握り潰していた。