Restart (2)
コナンから事情を聞かされた小五郎は、さすがに酔いも消し飛んだらしく、血相を変えて警視庁に駆け込んだ。
「目暮警部殿っ! すぐに娘を捜索してくださいっ!」
「いや、しかしなあ、毛利くん・・・」
噛み付かんばかりの形相で詰め寄る小五郎だったが、目暮警部は困惑した表情で腕を組むだけである。
「蘭君が家を出てから、まだ1時間ほどしかたっとらんじゃないか。事件に巻き込まれたとは断定できんよ」
「夕飯の支度の途中で買い物に出た娘が、買い物袋を残したまま姿を消したんですよ!? 充分立派な事件じゃないっすか!」
「その袋も、蘭君が落としたものとは限らんだろう・・・」
「だったらすぐに鑑識に回して、蘭の指紋がついてるかどうか確認してください!」
「さっき別の事件があって、鑑識班は全員そっちに回っとるんだよ。まあ仮に蘭君が誰かに攫われたのだとしても、犯人から何らかの連絡が入ってくるだろうし・・・」
「じゃあ犯人から連絡がくるまでは、ただ待ってるしかないってことですか!? そんな悠長な!」
「とにかく一課は今手一杯でな。警らに回すから、そっちで話してみてくれんか」
「警部殿! 蘭は空手の有段者ですよ。その蘭が攫われたとしたら、相手は凶悪犯の可能性も・・・」
煮え切らない目暮警部の対応に、小五郎の足元に立つコナンも内心で舌打ちしていた。・・・が、確かに、まだ何が起こったのかもわからない現在の状態で、たかが人探しに捜査一課が動いてくれるわけがない。
本音を言えば、すぐにでも全捜査員を駆り出して蘭の捜索に当たってもらいところなのだが、何より目暮警部たちが「手一杯」である理由も、嫌というほど分かっている。・・・組織絡みの膨大な余罪の追及で、とにかく多忙を極めているのだ。
内情を知る立場としては小五郎と一緒になって目暮に詰め寄ることもできず、コナンは「おじさん、とにかく誰でもいいから蘭姉ちゃんを探してもらおうよ !」と小五郎の服を引っ張って、一課をあとにしようとした。
そのときだった。
「・・・目暮警部!」
彼らの立っている場所・・・捜査一課の出入り口の前に、険しい表情の高木刑事が駆け寄ってきた。
「高木君、どうかしたのかね」
「それが・・・たった今、機械で声を変えた不審な男から、電話がありまして・・・」
コナンと小五郎は、はっとして顔を見合わせた。どちらの表情にも緊張が走る。
「内容は?」
「・・・工藤新一を出せ、と」
「工藤君を?」
・・・コナンはごくりと唾を飲んだ。嫌な予感がさらに高まってくる。
「それで?」
「ここにはいない、と言ったところ、彼に伝えろ、と・・・」
高木は言いにくそうに言い淀み、ちらっと小五郎の顔を見た。目暮が先を促す。
「それで? 何を彼に伝えろと?」
「・・・今日の午後10時30分までに、杯戸町4丁目の廃ビルまで一人で来い。来なければ、お前の女が死ぬことになる、と」
「何だと!?」
コナンと小五郎、目暮が、同時に叫んだ。
「まさか・・・蘭君か!」
「・・・じゃあ、あの探偵ボウズのせいで、蘭が攫われたっていうのか!?」
電話の男は、蘭の名前を出したわけではない。
だが、蘭が姿を消した直後である。男の言う「工藤新一の女」が、蘭のことを指しているのは明白だった。
小五郎の、ぎり、と歯噛みする音が、コナンの頭上から聞こえた。
「と、とにかく工藤君に連絡をとって、すぐに此処に来てもらうように・・・」
「それが、さっきから工藤君の携帯にかけているんですが、つながらなくて・・・」
電源を切ってあるのだから、つながらなくて当たり前である。その携帯電話は今、コナンのジャケットの内ポケットの中だ。
コナンは壁に掛けられた時計を振り仰いだ。現在8時30分。犯人の指定する時間まで、あと2時間しかない。
(・・・ジンだ。間違いねえ・・・っ!)
目暮と高木は、小五郎をはばかるように小声で話を続けている。・・・コナンはそこに、聞き耳を立てた。
「・・・犯人の目的が工藤君だとすると、彼が言っていた例の男が犯人である可能性もあるな・・・」
「はい。とにかく男の指定した場所に、捜査員を派遣したほうが・・・」
「だめだよっ!」
急に声をあげたコナンを、目暮警部と高木刑事は驚いて見下ろした。
「・・・コナン君?」
「だって犯人は、新一兄ちゃんに一人で来いって言ったんでしょ? 警察の人が一緒に行ったら、蘭姉ちゃんが殺されちゃうかもしれないよ!」
「・・・おい、コナン!!」
横槍から腕が伸びた。小五郎がコナンの胸倉を乱暴に引っ掴み、自分の目の高さまでその小さな身体を吊り上る。その腕にはあまりに力が入っていてコナンは息が詰まったが、これまでに見たことのないほど怒りに燃えた小五郎の目と視線がぶつかり、何も言えずにされるがままになった。
「・・・オメー、あの探偵ボウズの居所を知ってるのか!? だったらすぐに、引きずってでもここに連れてこい!」
・・・小五郎の怒りは、正当だ。
だが、コナンの中に湧き上がる怒りとて、それに劣るものではない。
コナンは自分の胸倉を掴む小五郎の手を自分の両手でぐっと掴むと、彼の眼光の強さを上回る強い視線で、小五郎の目を見返した。
「・・・蘭姉ちゃんは、新一兄ちゃんが必ず助け出す」
「・・・コナン・・・?」
「ボクが知らせに行ってくる。新一兄ちゃんのとこへ。だからおじさんたちは、新一兄ちゃんから連絡があるまで、ここで待ってて。連絡があるまで、絶対に動かないで。あいつは人を殺すことに躊躇しない・・・。蘭姉ちゃんを助けるには、新一兄ちゃんが一人で行かなきゃならないんだ・・・」
「・・・何だと・・・?」
あまりに強いコナンの視線と言葉に、小五郎の手に込められた力が一瞬、緩む。その隙をついてコナンは自分を吊り上げている手を振り解き、素早く床に飛び降りた。
「おい、コナン! オメー、犯人が誰だか知ってるのか!?」
「多分、新一兄ちゃんが言ってた奴だ・・・。奴の狙いは蘭姉ちゃんじゃない。新一兄ちゃんなんだ。だから新一兄ちゃんが一人で行けば、蘭姉ちゃんは大丈夫だよ !」
・・・本当はそんな保証など、どこにもない。
これは、そうであってほしい、という、彼の願望だ。
「絶対、ここで待ってて!」と言い捨て、コナンは外に飛び出した。
目暮や高木の呼び止める声が背後から聞こえたが、そんなものに構ってなどいられなかった。
***
なぜ、ジンは蘭を攫ったのだろうか。
夜の街中を駆けながら、コナンはこの事態に至った経緯を考えていた。
すでに組織が壊滅した今、奴にそれほどの情報網があるとは思えない。組織壊滅の元凶が工藤新一であるということまでは、組織の上層部に位置する人間であれば誰しも知っていることだろうが、その新一の最大の弱みが毛利蘭 という少女である、ということまでは、そうそう知られているとは思えないのだ。
・・・知っているとすれば、ベルモットのみ。
しかしコナンの正体が工藤新一であるという事実にすら口をつぐんでいた彼女が、蘭と新一の関係だけを取り上げて組織に報告しているとは思えない。
では・・・?
もし自分がジンの立場だったら、どうするか・・・と、考えてみる。
組織のボスを失い、主だった構成員のほとんどが逮捕または射殺され、もしくは自決した。生き残ったジンに残された道は、復讐。
彼はそのスケープゴートに、組織瓦解の元凶である新一を選んだ。・・・しかし当の新一は現場に一切姿を見せず、その居所はようとして知れない。
ヤツは考えるだろう。探すより、おびき出したほうが早い、と。
そのためには、新一の弱みとなる人間を見つけなければならない。
それを調べるのに最も適した場所は・・・
(・・・学校、だな。そうか、そういうことか・・・)
高校生探偵工藤新一に会いたい、とでもいって帝丹高校の校門で、目についた生徒に声をかける。ジンの容貌はかなり目立つだろうから、脅すか雇うかして他の人間にやらせる。
ほとんどの人間が、休学中だ、学校には来ていない、どこにいるのか知らない、と答える。だが、中にはこう答える生徒もいるだろう。
工藤のことなら、あいつの彼女に聞いてみれば、と。
新一と蘭は、実際には幼馴染以上の関係になったことはない。だが、クラスメイト達にはそう思われていなかったようで、ことあるごとに夫婦だとかなんとか、からかわれたものである。 だからそう答える生徒がいるだろうことは、簡単に想像できた。
そうして情報を集めた男は蘭の存在を突き止め、その後をつけ、自宅まで突き止める。それが、今日の帰りに蘭の後をつけていた男の正体というわけだ。
男から報告を受けたジンは毛利探偵事務所を張り込み、一人で買い物に出た蘭をまんまと拉致した・・・。
・・・考えてみれば、実にありそうな話だ。なぜ前もってその可能性を考えて、手を打っておかなかったのか。自分の迂闊さに、コナンは大きく舌打ちした。
理由は分かっている。
コナンは、自分がジンを探している、と思っていた。だが、ジンが自分を探している、とは思っていなかったのだ。
・・・いや、そう思っていなかったわけではない。
だが「攻め」に躍起にやるあまり、「守り」をおろそかにしたのは確かだ。ジンは江戸川コナンという子供の存在を知らないのだから、工藤新一に戻りさえしなければ大丈夫だ、と高を括っていた。
その結果が、この体たらく。結果、蘭を危険に晒すことになってしまった。そうするのが嫌で、これまで頑なに自分の正体を隠し通してきたというのに。
・・・絶対に、巻き込みたくはなかったのに。
(情けねー・・・くそっ・・・)
コナンは工藤邸に向かった。
ジンが指定した時刻は10時30分。杯戸町4丁目までは全速力で走って10分少々というところか。腕時計を見ると、現在8時40分。時間はあまり残されていない。
まずしなければならないことは、とにかく工藤新一の姿に戻ること。ジンは「工藤新一」に来いと言っているのだ。「江戸川コナン」が行っても、何もならない。
今こそ、あの薬を服用する時だった。
・・・APTX4869の解毒剤。
灰原哀から渡されたあのカプセル剤は、新一の自宅の自分の部屋に保管してあった。
引出しから取り出したカプセル剤を手にとったとき、「命の保証はしないわよ」という哀の言葉が一瞬脳裏をよぎったが、コナンは躊躇せずにそれを口の中に放り込み、用意したコップの水で喉の奥に流し込んだ。
過去に何度か元の身体に戻ったとき・・・飲んだのはパイカルであったり解毒剤の試作品だったりしたのだが・・・どちらにしろ効果が現れるまでに、服用後20分から30分程度 は時間がかかっている。今回も、すぐさま元に戻るというわけにはいかないだろう。
コナンは今は使われることもないクローゼットから、「17歳の新一」のジーンズとシャツ、パーカーを引っ張り出した。今のコナンにはぶかぶかのその服を、袖と裾を何重にも折り曲げて身につける。これでいつ薬が効き始めても、衣服の点では問題はない。少し動きにくいのは、我慢するしかないだろう。
自宅を出て、今度は隣の阿笠博士の家に駆け込む。道すがら電話で事情を話しておいたので、博士はすでにコナンの頼んでいたものを用意してくれていた。
「モデルガンを改造したものじゃ。麻酔針が5本装填できる」
「サンキュー、博士」
以前、杯戸シティホテルでやりあったとき、麻酔針を打ち込んだはずのジンがすぐに動くことができたことを考えると、奴は麻酔が効きにくい体質だという可能性もある。
いつもの時計型麻酔銃だけでは不安だったので、前もって博士に頼んで作っておいてもらったのだ。
「・・・本当に一人で行くつもり?」
博士と一緒にリビングで待っていた哀の声には、隠し切れない不安がにじんでいた。
「・・・ああ」
「危険だわ。これはあなたをおびき出すための罠なのよ。何か他にいい方法がないか、もっとよく考えてから・・・」
「相手はジンだ。奴は人を殺すことなんか、なんとも思ってねぇ。・・・もしオレ以外の人間が一緒に行ったことが奴にわかったら、その瞬間に蘭は殺される・・・」
「・・・でも」
「オレが一人で行くことしか、蘭を無事に帰してやる方法が思いつかねーんだ・・・。危険は承知の上さ」
「あなたが犠牲になって蘭さんを助けたとしても、彼女は喜ばないわよ?」
「誰が、死ぬって言ったよ」
コナンの表情に、いつもの不敵な笑みが浮かんだ。
博士から受取った麻酔銃をパーカーの内ポケットに隠し、眼鏡を外す。そこに立っているのは形こそ子供だが、まさしく高校生探偵、工藤新一という存在だった。
「心配すんな。ぜってーあいつをとっ捕まえてくっからよ。これで、本当に最後なんだ・・・。明日からは大手を振って、元の姿で街中歩けるんだぜ? ・・・もちろん、オメーもな」
「工藤君・・・」
哀が元の姿に戻ることを躊躇していることなど、コナンは知らない。
だから、彼女が元の身体を取り戻すためにも、なんとしてもジンを捕らえなければならない、とコナンは決意を新たにしていた。
時計の針は、9時を回っている。約束の場所まで10分かかるとして、遅くとも10時20分には家を出なければならない。
「・・・そろそろ効きはじめてもいいころだよな」
身体には、いまだ何の変調もない。
戻ったり縮んだりするたびに、骨が溶けるような全身の痛みと心臓が破裂するかのような負担がかかることを思い出し、じきに訪れるであろうその感覚を、コナンは緊張して待っていた。
その間に警視庁に連絡を入れ、今から現場に向かうことを小五郎に告げる。
電話の向こうで「蘭に何かあったらただじゃおかねー!!」と叫ぶ小五郎に、「命にかえても、蘭は必ず助け出します」と強く告げると、気圧されたかのように小五郎は押し黙った。
その後、目暮に電話をかわり、決して警察を現場に近づけないよう念を押す。
ただし、新一が連絡したらすぐに出動できるよう、準備だけは整えておいてほしいと依頼した。
「・・・少し、遅いわね」
時計の針が10時を回ったところで、哀が呟いた。その声に、わずかの焦り。・・・コナンが解毒剤を服用してから、すでに1時間以上が経過していた。
ふと、コナンの脳裏に、あまり考えたくはない可能性が浮かんだ。
「・・・なあ、灰原。もしかして、オレには解毒剤が効きにくくなってるんじゃねーのか? 今までに何回か飲んだせいで・・・」
コナンの呟きに、哀は答えなかった。
だが、その沈黙が肯定の意味であることは明白だった。阿笠博士も息を飲む。
・・・ありえないことではない。
どんな薬でも、何度も繰り返し服用していれば次第に身体に抵抗がつき、効きが悪くなってくるものだ。いくら特殊な薬とはいえ、この解毒剤にも同じことが起こらないとは限らない。
(・・・さすがにこれはちょっと、想像してなかったな・・・)
責任を感じているのだろうか、哀の表情が固い。彼女に余計な気を使わせないよう、コナンは気づかれないように小さくため息をついた。
10時15分。
その時点で、コナンがすっくと立ち上がる。
「・・・工藤君!?」
「行く。コナンのままじゃ足も遅いし、もう出ねーと間に合わねえ」
「だめよ! 死にに行くようなものだわ!」
歩き出そうとしたコナンの前に、哀が両手を広げて立ちふさがった。
「・・・どいてくれ、灰原」
「そんな子供の姿でジンと戦って、勝てるとでも思っているの!?」
「蘭が待ってる」
「今のままのあなたが行ったところで、2人とも殺されるだけよ!」
「蘭を・・・助けるんだ」
「・・・あなたが行っても蘭さんが殺されることにかわりはないわ。他に方法がないか、考えてみなさいって言ってるのよ! ただ闇雲に相手の罠の中に飛び込んでいくなんて・・・それでもあなた、名探偵なの!?」
「・・・ふざけんな!!」
地の底から押し出されたような、叫びだった。その迫力に押され、哀が一歩あとずさる。
「・・・好きな女の一人も守ってやれねーで・・・何が名探偵だ!」
叫ぶなり、哀を突き飛ばすようにして押し退けると、コナンは外へと駆け出していた。背後で哀と阿笠の自分を呼ぶ声が聞こえたが、それに構わず疾走する。
何が、名探偵だ・・・!
それは、コナンの自分自身に対する怒りの声だった。
高校生探偵としてもてはやされ、いい気になっていた。
自分に解けない謎はない。世の中のすべての事柄が、自分の手の平の上にあるのだと、錯覚していた。
その思い上がりが招いた、「工藤新一」の長い喪失。そして、蘭を待たせ、心配させ、悲しませ・・・泣かせた。
そばにいながら、何もしてやれない。何も言ってやれない。・・・正体を明かせない、苦悩。
それは自分自身に対する、大きな罰だ。
たかだか高校生のガキにできることが、いったいどれほどあったというのか。
自分は、一番大切な奴の涙を止めてやることすらできない、ただの無力な男でしかなかったのだ。
・・・それを、嫌というほど思い知らされたはずだったのに。
だからもう二度と、同じ過ちは犯すまいと思っていたはずなのに。
また、錯覚していたのだ。
自分には何でもできるのだ、と・・・あの巨大な組織を壊滅に追い込んだのは、まぎれもなく自分なのだから、と。
だからジンを警戒しているつもりでも、どこか心が浮ついていた。
その隙を、付け込まれたのだ。
(・・・情けねえ・・・っ!)
もっと、考えておくべきだった。
蘭がジンに狙われるという、危険性を。
自分に解毒剤が効かないかもしれないという、可能性を。
・・・すべては、自分の甘さが招いた事態だ。
今のコナンにできることは、ただ走ることだけだった。
絶対に巻き込みたくなかった、そして絶対に死なせたくない、何よりも誰よりも大切な人を、救い出すために。
哀の言う通り、コナンの姿のままであの男と相対することは、自殺行為に近いだろう。
体力的に圧倒的に不利な上、向こうは殺人のプロ。しかもこちらは、蘭を庇いながら、というハンデまでついている。
それでも。
コナンは走ることしかできなかった。
ただ、蘭のもとへと・・・。