Restart (3)


 

 男が指定した杯戸町の廃ビルは、元々はある不動産会社が所有していたものである。3年ほど前に会社が倒産し、その後は利用者がないままに放置されている。
 そういえば少年探偵団の連中と一緒にここに忍び込んで、学芸会の劇の練習なんてこともやってたな・・・と、今はどうでもいいようなことを思い出し、コナンは自嘲気味に息を吐いた。

 腕時計を確認すれば、22時26分。・・・約束の時間の4分前だ。
 ビルの正面に言葉もなく佇んで、コナンはその全容を一瞥した。

(屋上、だろうな・・・)

 ここにたどり着くまでの間、もしかしたらぎりぎりで解毒剤が効き出して、元の身体に戻れるのではないか・・・と、かすかな希望を抱いていたのだが、その望みも今は潰えた。やはりこの子供の姿のままで、あの男と対峙しなければならないらしい。
 コナンはもう一度大きく息を吐いてから 、覚悟を決めてビルの中へと駆け込んだ。

 『工藤新一』を待ち構えているはずのあの男が、この期に及んで物陰に身を隠しているとは思えない。恐らくこの階段を昇った先に待ち構えていることだろう。

 ・・・そんなところに何の策もなく飛び込んでいくことが、どんなに無謀なことか・・・それはコナンにもよくわかっていた。
 だが人質となっている蘭の安全を最優先に考えた場合、最悪の事態を招きかねない下手な奇襲作戦をとるわけにはいかない。
 あの男の狙いはあくまでも工藤新一であり、蘭は新一をおびき出すために利用されたに過ぎない。目の前に真の標的が現れれば、彼の意識は例え僅かであろうとも、蘭から 逸らされるだろう。・・・何割かは希望的観測を含みつつも、コナンはそう予測している。
 だからどうあっても、真正面に飛び出すしかないのだ。

 問題は、その後だった。
 コナンの武器は、使い慣れない麻酔銃と、ほんの数秒間しか原型を留めてくれてはいないサッカーボールだけ。まず間違いなく拳銃を所持しているはずの敵と、殺傷能力だけを比較しても問題にならない だろう。さらに相手の殺し屋としての手腕を考えて・・・果たして、勝算はあるのか。

(・・・とにかく、やるっきゃねーよな・・・)

 もう、考えている時間などないのだ。
 暗闇に近い視界の中、一度は立ち入ったことのあるビルだということが幸いし、コナンは迷いのない足取りで階段の位置を探り当て、それを一気に駆け上がった。
 耳が痛くなるほどの静寂の中を、腹立たしいほどに小さな歩幅の、小刻みな足音だけが反響する。建物中に響き渡っていることは間違いない・・・ということは、当然、彼の来訪は 、瞬時に男の知るところとなっているであろう。
 もともと逃げ隠れするつもりなどなかったとはいえ、自分の存在を派手に宣伝してしまっているこの状況が、コナンにとって有利に働かないことだけは確かだった。

 そしてコナンは、階段を昇りきる手前・・・屋上へと続く踊り場で、ゆっくりと足を止める。僅かに見上げた視線の先に、ゆらりと揺れる人影を見た。
 そして、底冷えのする低い声が降ってくる。

「ふん・・・。どうやら逃げなかったようだな」

 闇に包まれた廃ビルの中、人の気配を感じ取ることはできるが、相手の顔も見えなければ様子も窺えない。しかし、そこから放たれる殺気とも冷気ともつかぬ尋常 ならざる存在感は、 あの男のものに違いなかった。

(・・・ジン・・・)

 これまでにも、何度も邂逅を重ねた。そしてその都度、手がかりすらも掴むことができずに逃げられてきた。
 ずっと追い続けた、宿敵。
 その存在を間近に感じ、コナンの全身は内側から競りあがってくる高揚感と、研ぎ澄まされた冷静さとが同居するような、奇妙な感覚に支配されていた。
 ・・・不思議と、恐怖は感じなかった。

 そしてコナンは、変声機越しに男に問い掛ける。

「・・・蘭は、無事なんだろーな」
「生かしてあるさ。てめえをおびき出すための大事な餌だ」

 コナンを嘲笑するかのように、ジンは薄く、冷たく笑う。

「女の顔が拝みたきゃ、ここまで上がってくるんだな・・・」

 そしてその気配が、ふっと遠くなった。どうやらヤツは、屋上に出たらしい。
 コナンはそれを追うように、残りわずかとなった階段を一歩ずつ踏みしめるように上った。・・・この先には、戦場が待っている。半開きになった 扉が間近にせまり、コナンはごくりと唾液を飲み込んだ。

 外への扉にぴたりと張り付き、屋上の様子をうかがえば、そこは淡い月明かりに満たされていた。
 冷たい風が強く吹き渡るビルの屋上。
 破れた金網のフェンスに囲まれた空間のちょうど真ん中あたりに、ジンの姿を捕らえることができた。お決まりの黒のロングコートに黒の帽子。左手に拳銃。背にかかる長髪 と咥えタバコから細く立ち上る白煙が、強い風にたなびいている。

 そして、ジンの立つ位置から2mほど離れた金網に、もたれかかるようにして座らされている人影・・・。

「蘭!」

 その姿を認めてコナンが思わず声を張り上げると、蘭は弾かれたように顔を上げ、視線を彷徨わせて声の主を探した。
 蘭からは、扉の裏にいるコナンの姿は見えていない。自分の名を呼ぶ新一の声に、信じられないとでもいうように、瞬きを繰り返した。

「・・・新一・・・」

 蘭は後ろ手にされた両腕と両足首を、ロープで拘束されているようだった。・・・ここからでは正確なところはわからないが、少なくとも怪我を負わされているようには見え ない。
 コナンはほっと息をついた。

「どうした、怖気づいたか? さっさと出て来い。女の脳天をぶち抜かれたいか」

 なかなか姿を現さない「工藤新一」に苛立ったのか、ジンが蘭に銃口を向ける。蘭がはっと息を飲むのが見えた。

「オレは逃げも隠れもしねーよ。テメーとさしで勝負してやるさ」
「ふん・・・なら、とっととその穴倉から出てくるんだな。こそこそと鼠のように動き回る、薄汚い探偵が・・・」
「女を人質にとるような卑怯者に言われたかねーな」
「警察の影に隠れているしか能のない臆病者が、たいそうな口を叩くじゃねーか」
「・・・隠れてねーって言ってんだろ? お望み通り、姿を見せてやるさ」

 コナンはゆっくりと扉を押し開き、数歩、ジンの前へと進み出る。

 冴え冴えと冷たく降り注ぐ月明かりの中に、浮かび上がる小さな身体。

 この張りつめた空気の中で、それはなんと不釣合いな登場人物であっただろう。予想もしなかった子供の登場に、ジンが不快げに片眉を上げ、蘭が驚いたように目を見開く。

「・・・コナン君・・・?」

 なぜ、ここにコナンがいるのだろう。・・・蘭の呆然とした視線が、震えるようにコナンに注がれる。
 それに対して「ちょっと待ってろ」とだけ告げて、コナンはジンを鋭く見据えた。

「・・・何だ、お前は」

 肩透かしを食らったジンの眉間が、不快げに顰められる。・・・と同時に、わずかの困惑が、その表情に浮かんだ。

 そんな両者の反応を見比べて、コナンはふっ、と口角を上げた。

「組織随一のヒットマンが、女を人質に薄汚れた廃ビルに身を潜めなきゃならねーとは、随分と落ちたもんだなあ・・・・・・ジン」
「・・・小僧、何者だ。なぜ俺の名を知っている」
「テメーの名前だけじゃねーぜ。ウォッカにテキーラ、ピスコにベルモット・・・」
「貴様・・・」
「みんな死んじまった。・・・テメーもそろそろ、年貢の納め時だぜ・・・?」
「貴様、まさか・・・!」

 ジンの表情にわずかに含まれたものが、困惑から驚愕に変化するのを、コナンは見逃さなかった。

 そう、「こんな小僧が知っているはずのない」組織の内情を口にすれば、ジンは疑うだろう。この子供は、もしや工藤新一なのではないのか、と。
 常識で考えれば、けっしてあり得る筈のない、その仮定。だが、組織の研究が何を目指したものであったかを知りえる者ならば、「ありえないことではない」と考えるだろう。
 灰原・・・いや、シェリーを始めとする研究者達が、いったい何を開発させられていたのか、それを知らされているならば、その仮定は十分に成立する。

 ・・・そして、そう考えた瞬間が、ジンに隙を作らせる。
 ジンの意識が傍らの蘭から完全に逸れ、正面に位置するコナンに注がれながらもそれが殺気ではなく驚愕と戸惑いとなる、その瞬間。
 それを逃さず、コナンはボール射出ベルトから、サッカーボールを放出した。

 キック力増強シューズのダイヤルは最大出力。その威力はコンクリートの壁さえも粉砕する。
 渾身の力を込めて彼の右足から蹴り出されたボールは、わずかな隙を見せたジンの身体を軽々と吹き飛ばし、昏倒させるに十分なものだった。

 ボールを顔面にまともに受けて、ジンの身体が数瞬、宙を舞い、その後仰向けにコンクリートに叩きつけられる。男が落下した位置は、先ほどまで彼が立っていた ところから 、3mほども離れた場所だった。
 これだけの威力をまともに喰らえば、脳震盪を起こしているとみてまず間違いない。コナンは倒れこんだジンに素早く駆け寄り、その左手から黒光りする拳銃を奪い取った。

(おしっ、まずは一安心だな)

 見下ろしたジンは、白目を剥いて倒れたまま、起き上がってこない。
 ・・・哀に自殺行為だとまで言われ、自分自身でも一か八かの賭けに近かったこの男との対決を、何とか無事に乗り切ったことに、コナンは我知らず、肩で大きく息をついていた。
 いつの間にか額に浮かんでいた汗をパーカーの袖で軽く拭い、そして・・・顔を上げた視線の先に、自分を呆然と見つめる、幼馴染の姿を認める。
 駆け寄って、間近であらためてその無事な姿を確認し、再度コナンは、より大きく安堵の息を吐いた。

「蘭、大丈夫か?・・・怪我してねぇな?」
「う、うん・・・大丈夫。・・・でも、どうしてコナン君が・・・」

 ・・・いつもとは明らかに違う、子供っぽさのかけらもないコナンの様子に、蘭は困惑に揺れた瞳でコナンを見つめてきた。

「説明は後だ。ロープ切るから、じっとしてろ」

 ジンから取り上げた銃を蘭の足首に向けて撃つ。 ・・・パシュ、と発射音がして、蘭は一瞬、驚いたように身を竦ませたが、当然それは蘭の足首をいささかも傷つけることはなく、彼女を拘束していたロープだけをわずかに掠めた。
 はらりと落ちた切れたロープを、コナンはもどかしげに取り除く。同様に後ろ手にされていた手首も、簡単に自由を取り戻した。

「立てるか?」
「う、うん・・・」

 コナンが差し出した小さな手を、少し躊躇してからおずおずと握り、それに掴まって蘭はのろのろと立ち上がった。寒空の下に何時間も座らされていたせいか、その手は氷のように冷たい。
 立ち上がってコートの汚れを両手で軽く払いながら、蘭は何か言いたげな瞳でコナンの顔を見下ろした。

「・・・コナン君・・・あなた・・・」
「走れるな? すぐにここを出て、警察に連絡するんだ。目暮警部が出動準備をして待機してくれてる」

 蘭の言いたいことは、分かっている。
 が、今はそれをゆっくりと説明していられる状況ではない。コナンは鋭い口調で蘭の問いを遮ると、彼女の腕を強く引いて、すぐにこの場を離れるよう促した。

「で、でも私、携帯持ってきてないよ」
「これ使え。110番じゃなくて、目暮警部の携帯に直接かけるんだ。リダイアルですぐに繋がる。・・・使い方、わかるな?」

 コナンはパーカーのポケットから、自分の携帯を取り出した。・・・工藤新一として使用している携帯だ。
 戸惑いを消せないままに立ち尽くす蘭の手の中に、押し付けるようにしてそれを握らせ、「行け!」と強く蘭を押し出す。

「行け・・・って、じゃあ、あなたは・・・」
「あいつを一人で残しておくわけにはいかねーからな・・・。蘭一人で行ってくれ」
「でも」
「オメーが無事にここを出ねーと、警察が出動できねーんだよ。とにかく急いで下まで降りて、ビルを出てから電話しろ。・・・おっちゃんが心配して待ってたぜ」

 再度強く促すと、その強い口調と勢いに押されたように、コナンに視線を落としながらも蘭は階段へと足を向けた。

 その心細げな背中を、コナンは見守るように視線で追う。
 こんな恐ろしい目に遭わせてしまった直後なのだから、本当はそばについていってやりたかった。
 だが蘭に告げた言葉の通り、ジンを一人で残しておくわけにはいかなかったし・・・そして同時に、一刻も早く蘭をこの場から立ち去られる必要があるのだ。
 彼女の無事が確認されて初めて、警察は動くことができるのだから。

 そうして見送るコナンの視界の中、後ろ髪を引かれるようにしながらも扉のほうへと向かっていた蘭が、途中でぴたりと足を止めた。

(・・・蘭・・・)

 恐る恐る・・・といった様子で、蘭はゆっくりとコナンを振り返る。
 その瞳が、わずかに潤んでいた。込み上げる何かに、必死に耐えているような・・・そんな、瞳だった。

 震える瞳。震える唇。
 そしてその寒さで青ざめた唇が、小さく言葉を刻む。
 あまりに小さなその呟きは、音としてコナンの耳に届くことはなかった。だがその微かな動きだけで、コナンには蘭が何を言ったのか、わかっていた。

「・・・しんいち・・・なの・・・?」

 ・・・その言葉を、コナンは聞こえなかった振りをした。
 そうだ、と言ってやるのは簡単だったが、そうすれば余計に、蘭がその場を動けなくなることがわかっていた。だから、「早く行け!」とだけ繰り返す。

 それでも蘭は、なかなかそこを動こうとはしなかった。
 もう言葉を発しようとはしなかったが、言葉以上に思いを込めた瞳が、じっとコナンを見つめている。
 コナンももう何も言わず、ただ黙って蘭を見つめた。
 ・・・二人の視線と視線が、月明かりの下で絡み合った。

 どれほどそうしていただろう・・・やがて蘭は、ぎゅっと唇をかみ締めると、何かを振り切るかのようにコナンに背中を向けた。
 それまでのためらいや逡巡を置き捨てて、彼女はようやくその場を駆け去った。その姿が完全に闇に消えるのを確認し、コナンはほっと安堵の息をつく。

(・・・悪ぃな、蘭)

 あとで、全部、説明するから。
 ジンの始末がついて、すべてが片付いたら、必ず・・・。

 蘭の姿が消え、そして階段を降りる足音が小さくなり・・・やがて聞こえなくなってからもなお、コナンは蘭が入っていった扉を見つめていた。

 もう、正体を隠す必要はない。
 このビルに入ったときから、自分は姿こそコナンのままだったが、意識は工藤新一に戻っていた。・・・蘭もそれを感じていたのだろう。だから、新一の名を、最後に呼んだ。

 ・・・たったそれだけのことが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
 蘭が、自分の目を見て、「新一」と呼んでくれる・・・そんな当たり前のことが、こんなにも・・・。

(こんなときだってのに、何を考えてんだか・・・)

 コナンは自嘲気味に苦笑して、視線をコンクリートの床に落とした。
 蘭が警察を呼び、ジンを捕獲してようやく、すべてが終わるのだ。・・・そしてそのときこそが、自分達の新しい始まりのときとなる。
 それは、もうじき、なのだから。

 警察がくるまでに、せめてジンの身柄を拘束しておこう。
 そう考えたコナンは、まだ床に昏倒しているはずのジンのほうを振り向こうと、身体を反転させた。

 そのとき。

 ・・・空を切り裂く銃声が、時間を止めた。

「・・・な・・・!」

 肩を貫く熱い痛み。噴き出す鮮血。

「ざ、残念だったな、小僧・・・」

 脳震盪を起こして倒れていたはずのジンが、コンクリートの上でその半身を起こしていた。
 彼の左手の中に、小型の護身銃らしきものを認め、コナンはぎりっ・・・と唇を噛んだ。

 細く硝煙を上げる銃口は、なおも真っ直ぐにコナンに向けられていた。


 


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