Restart (4)
コナンの左肩から、溢れ出す鮮血。
「・・・く・・・っ!」
熱い痛みに、思わず呻き声が漏れる。
右手を傷口に押し当てて、痛みにうずくまりそうになる身体を、コナンはかろうじて踏みとどまらせた。
(・・・ち・・・きしょ・・・っ! 油断したぜ・・・っ!)
あれだけの勢いのボールを顔面にまともに受ければ、普通の人間ならそう簡単に起き上がることは、絶対にできないはずだった。・・・少なくともこれまでコナンが相手にしてきた犯罪者たちの中で、これだけの打撃を与えておきながら 、逃げられたり反撃されたりしたことなど、皆無だったのだ。
それなのに、この男は・・・!
以前、杯戸シティホテルでやりあったときも、そうだった。
コナンが麻酔銃を打ち込んでおきながら、まんまと逃走を許した相手・・・その唯一の存在である、ジン。・・・今回もまた、コナンの予想を裏切る回復力をもって、男は身を起こしてきた。
低い位置からコナンを睨みすえるジンの暗い瞳の奥には、激しい憎悪の炎が揺れている。
もしかしたら今のジンを支えているのは、コナン・・・いや、その後ろに見え隠れしている、自分をここまで追い込んだ『存在』に対する、耐え難い復讐の念だけなのかもしれない。
その激しい意思により、男は無理矢理のように意識を取り戻し、そして、コナンを撃ち抜いたのだ。
「・・・オレが銃を一つしか持たないと思った、お前の負けだ。俺から奪ったその銃で、さっさととどめをさしておくべきだったな・・・」
ジンから奪った銃は、今、コナンの足元に転がっている。ジンに肩を撃たれたときに思わず取り落としてしまったのだ。
そしてジンの手の中には、それとは別の小型の護身銃・・・。
命中度や破壊力は格段に落ちるだろうが、もちろん銃であることにかわりはない。・・・コナンの命を奪い去るには、十分な武器である。
「・・・テメーらみてーな殺人鬼と、一緒にすんじゃねーよ・・・」
ジンの嘲りに応えるコナンの台詞が終わるか終わらないかのうちに、さらに二発目の銃声。・・・今度はコナンの右頬を掠め、そこに赤い筋を作った。
「・・・反吐が出るぜ。その安っぽい正義感にはな・・・」
ジンの吐き捨てるような声が、コナンの耳に不快な響きとなって届いた。・・・が、余裕ぶってみせたつもりなのかもしれないが、ジンの呼吸はかなり荒い。
少なくともジンに与えたボールのダメージは、完全にはなくなっていないようである。
それを証拠に・・・あのジンが、二発も弾を外している。
「へっ・・・。狙いが定まってねーじゃねーか・・・。まだ頭がふらついてんだろ・・・」
「心配はいらねえぜ。・・・弾はまだあるさ。貴様をなぶり殺しにするには十分な数がな・・・」
言いながら、ジンは銃口をコナンから外すことなく、ゆっくりと身体を立ち上げる。・・・ゆらりと大きな身体を揺らし、かろうじてバランスをとっているようだった。
・・・ジンが受けたダメージが、まだかなり残っているのは間違いない。
だが、対するコナンが受けたダメージだとて、決して小さくはないのだ。
左肩をぐっと掴んだ右手の指の隙間からは、赤い雫が止めどなく溢れ出ている。コナンの腕を生ぬるい液体がつたっては、コンクリートの上に大きな血溜りを作っていた。
この出血量・・・もしかすると、大きな血管を傷つけられたかもしれない。
徐々に回復しつつあるジンと、逆に血の気を失って全身から力が抜けていっているコナン。・・・状況は、誰が見てもコナンにとって絶望的だった。
ばんっ・・・と、三度目の銃声。
今度はコナンの、右太ももを貫通した。
「・・・ぐ・・・っ!」
痛みと衝撃に耐え切れず、コナンはがくりと膝を付く。
・・・それでも視線だけはジンから逸らさない。
気迫だけは・・・決して、負けるわけにはいかない。
「・・・ど・・・どうした、よ・・・。頭は、そこじゃねー・・・ぜ」
「口の減らねえ、ガキだ・・・。今、楽にしてやるさ。・・・だが、その前に、聞かせてもらおうか」
「何をだ?」
「とぼけるな。貴様・・・何者だ・・・。ただのガキじゃねえ・・・」
苛立たしげなジンの問いに、ふっ・・・と、コナンは口元に小さく笑みを浮かべる。
泣いても笑っても、これが最後。
生き残るのは、自分か、ジンか。・・・結果はどうあれ、間違いなくこれが最後の戦いだ。
・・・最後ぐらい、本当の名を名乗らせてもらおうじゃねーか。
「工藤、新一・・・。探偵、さ・・・」
自らの正体を明かしたコナンの言葉に、ジンは目を見開いて、低くうめいた。
「まさか、とは思ったが・・・やはり、な・・・」
工藤新一を呼び出したはずの場所に現れた、小さな子供。
知るはずのない組織の極秘情報を口にし、ジンにコンクリートの地面を舐めさせるという屈辱を与えた、ただの子供ではありえない存在。
まさか、という思いより、やはり、という思いが勝るのだろう・・・ジンが大きく舌打ちした。
「・・・こんなガキの姿で、組織の目を眩ましていたとはな・・・。まんまとしてやられたというわけか・・・」
「こんな姿になっちまったのも、元はといえばテメーがオレに飲ませた毒薬のせいなんだぜ・・・? あの『出来そこないの名探偵』のな・・・」
「あれは、死体から毒が検出されない毒薬だったはずだ・・・」
「試作段階だったあの薬は効果が安定せず、本来の働きは見込めなかった・・・。ところが実験に失敗したはずの死体から薬物が検出されないという別の効果が 認められたために、組織の研究所はあの薬を毒薬として利用することにしたんだ・・・。あの薬・・・APTX4869は、もともと、時の流れに逆らって、人間の身体の成長を逆行させる薬だった のさ・・・」
「・・・えらく詳しいじゃねえか」
「薬の開発者から、直接聞かされたからな・・・」
「シェリーか。・・・やはり貴様が匿っていたのか」
(・・・やべ。目が霞んできやがった)
ジンとのやり取りを続ける最中にも、傷口からの出血は止まらない。
子供の身体では、必要な血液が足りなくなるのも早いのだ。・・・白く霞み始めた視界に、コナンはぎゅっと唇を噛み締めた。
だがそんな痛みごときでは、もう意識を保っていられる状態ではなくなってきている。
早くしなければ、時間が、ない。
だが・・・。
ジンの銃口は小刻みに震えながらも、コナンの頭部を狙っている。さすがに次は、はずさないだろう。
一方コナンの武器はといえば、ボール射出ベルトから放出したサッカーボールはすでに原型を留めておらず、ジンから奪い取った銃は左肩を撃たれたときの衝撃で取り落とし た状態。・・・拾い上げて構えるより、ジンがコナンの頭を打ち抜くほうが早いだろう。
残るのは、パーカーの内ポケットに忍ばせた麻酔銃。昔、ハワイの別荘で父に鍛えられたせいで、早撃ちは苦手ではないが・・・このプロの暗殺者に、果たして通用するのかどうか。
「・・・そろそろ、覚悟はいいか?」
ジンが、ゆっくりと撃鉄を下ろす。
いちかばちか・・・左肩に当てた血に染まった右手を、ジンに気取られぬよう少しずつ下方へとずらしながら、コナンはジンに問い掛けた。
「その前に・・・聞かせろ、よ。オレもテメーの質問に答えてやったんだぜ。こっちにも答えてくれよ・・・」
ジンがふっ、と口元を歪める。
「・・・冥土の土産だ。答えてやろうじゃねーか」
「オレを・・・工藤新一を狙ったのは、組織を壊滅に追い込んだことへの、復讐のためなのか?」
「ふん・・・俺は生憎と、そんなくだらねえ感傷は持ち合わせちゃいない・・・」
「だったら、なぜ」
「工藤新一は、俺が殺したはずだ。それが生きていやがるというのが気に食わなかった。それだけのことさ・・・」
言葉を切ると同時に、ジンが引き金を引く。
コナンの右手がパーカーから麻酔銃を引き抜き、針が発射される。
(・・・相打ち、かな?)
自分の動きさえもスローモーションに感じられる朦朧とし始めた意識の中、コナンは妙に冷静にそんなことを考えた。
ま、相打ちとはいっても、コナンの麻酔銃を受けたジンが眠ってしまうだけなのに対し、ジンの弾丸を受けたコナンのほうは命を落とすことになるわけだから、厳密に言えばコナンの負けなのだろうが・・・。
結局、元の姿に戻れないまま、死んでしまうのか。
(ごめん、蘭・・・)
『あなたが犠牲になって蘭さんを助けたとしても、蘭さんは喜ばないわよ?』・・・哀の言葉が脳裏をよぎる。
そうだろうな。
あいつは、きっと泣くだろう。
・・・自分は最後まで、蘭の涙を止めてやることもできなかったのだ・・・。
「・・・新一!!」
蘭の声が、聞こえた気がした。
やっぱり死ぬ時には、一番聞きたい声が聞こえるものなのだろうか。それも、コナンではなく、新一、と呼ぶ声。
だが次の瞬間、コナンの傷ついた小さな身体に、どんっ、と何かが強くぶつかってきた。
その衝撃に、彼の身体はその場から放り出されるようにして宙を舞った。
(・・・え?)
視界が数度回転し、コンクリートの上をごろごろと転がる。・・・何が起こったのかを理解するのに、数秒を要した。
一瞬だけ意識が遠のき、数秒後に弾かれたように身を起こす。肩と太ももが痛みに悲鳴を上げたが、構っていられなかった。
まず視界に飛び込んできたのは、銃と取り落としてうつ伏せに倒れたジンの姿。
麻酔銃の照準は、ジンの首筋に合わせていた。引き金を引いた瞬間に意識が遠のいていたので、命中したかどうかまでは確認できなかったのだが、この様子では無事にジンを眠らせることに成功したらしい。
そして、コナンは自分の身体を確認する。
痛むのは左肩と、右太もも。頬のかすり傷と、転がった拍子にコンクリートにしこたま打ち付けた背中。それ以外には傷も痛みもない。・・・ジンの放った銃弾は、コナンには命中していないのだ。
(・・・どうして・・・)
そして次に視界に飛び込んできた光景に、コナンは我が目を疑った。
「・・・蘭!?」
先ほどまでコナンが立っていた血溜りの上に、とっくにこの場から逃がしたはずの蘭が、うずくまっている。
「蘭!」
自分の怪我の痛みなど吹き飛んでいた。
駆け寄って、蘭を抱き起こす。
「・・・蘭・・・っ!」
蘭を抱えたコナンの両手が、深紅に濡れた。
コナンの血ではない。・・・それは蘭の腹部から、溢れる出ている。
・・・ジンが撃った銃弾は、コナンを突き飛ばした蘭の腹部を貫通していたのだ。
「蘭・・・オメー、どうして・・・」
小さな身体で必死に蘭を抱き起こし、その青白い顔を呆然と見つめるコナンに向かって、蘭は弱々しい笑顔を見せた。
「銃声が聞こえて・・・じっとしていられなくて・・・。気づいたら、飛び出しちゃった・・・」
「バーロッ!! 何で戻ってきたんだよ!!」
「できないよ・・・新一を置いて、一人で逃げるなんて・・・」
「蘭・・・」
「でもよかった・・・新一に、弾、当たらなくて・・・」
蘭の声が次第に弱く、か細くなる。
「蘭! しっかりしろ、蘭!!」
コナンの必死の呼びかけに、蘭はふわりと笑顔を見せた。
そしてそのまま、すーっと意識を失ってしまう。
「・・・蘭!」
・・・うそ、だろ・・・?
コナンの血の気が引いたのは、自身の出血のためではない。
まさか・・・まさか蘭が、自分を庇って飛び出してくるなんて・・・!!
「蘭・・・おいっ! しっかりしろっ!!」
二人の血に染まった両手で、コナンは蘭の身体を強く揺すった。・・・だが、蘭の閉じられた瞼は、もう開こうとはしない。
助けたかったのは自分。守りたかったのも、庇いたかったのも、自分の方だというのに・・・気がつけば、蘭はいつでも守ろうとするコナンの、新一の背後を飛び出して、前に出て行ってしまう。
・・・コナンのため、いや、新一のために・・・。
絶対に、死なせるわけにはいかなかった。
腕の中の蘭の状態を、素早く確認する。
弾が当たったのは、下腹部。
ジンはコナンの頭部を狙ったのだろう・・・身長の違いで、蘭にとっては致命傷となる位置ではなかった。
だが・・・なにしろ、出血がひどい。
このままの状態が続けば、間違いなく蘭の命は失われてしまう。
コナンは着ていたパーカーを脱ぐと蘭の腰に巻きつけ、ぎゅっと強く絞り込んだ。これで少しは出血を押さえられる。
とにかく早く病院に運ばなければならない。
しかし・・・こんな小さな身体では、蘭を抱き上げてやることすら、できないのだ。
(どうすればいい!? ・・・どうすれば・・・!!)
ぐったりと傷ついた蘭の上半身を抱え、コナンは心底自分の無力さを呪った。
こんな身体でなければ。
こんなガキの姿でなければ、もっとうまくジンと渡り合えただろう。
蘭を飛び出させることもなかっただろう。
蘭を抱き上げて、病院に駆け込むこともできただろう。
コナンになったことは、工藤新一に対する罰だと思っていた。
だとしたら、これほどひどい罰が、他にあるだろうか・・・!
「蘭・・・蘭・・・っ!」
コナンは次第に青白くなっていく蘭を、小さな手でただ抱きしめるしかできなかった。
ただ名前を呼ぶことしか、できなかった。
「・・・蘭っ!! 頼む・・・死ぬなっ! 死なないでくれっ!!」
血を吐くような叫び。
全身全霊をかけて、コナンは祈った。
そのとき。
まるでその祈りに応えるかのように、コナンの心臓が、ドクン、と強く波打った。
それは、覚えのある感覚だった。
ドクン、ドクン、ドクン・・・より強く、早くなっていく心臓の鼓動。同時に、体中の血が沸騰したかのように熱を帯び、全身に痛みをもたらす。
「・・・おせーよ・・・」
痛みと苦しさに朦朧とする意識の中で、コナンは苦く呟いた。
・・・今ごろになって、解毒剤が効きだしてくるとは。
せめてあと30分早くこの痛みが訪れていれば、蘭をこんな目に合わせずに済んだというのに。
「けど、これで・・・蘭を運んでやれる、かな・・・」
ドクン、ドクン、ドクン・・・心臓が破裂するのではないかと思うほどの、強い鼓動。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。蘭からの連絡で、目暮警部たちが動いたのだろう。
(・・・そういや、蘭のやつ・・・さっき新一、って呼んでたな・・・)
疑問の残った呼びかけではなかった。明らかに、コナンのことを新一だと「知っている」口調だった。
ジンとのやり取りを、聞いてしまったのかもしれない。「工藤新一」だと、コナンが名乗ったのを・・・。
ドクン!・・・と、より大きな鼓動。
そして、『江戸川コナン』という名の子供の姿は、消滅した。
そこに存在していたのは、まったき姿を取り戻した・・・『工藤新一』、その人だった。