Restart side Ran (1)
どうして、こんなことになってしまったんだろう・・・。
何もわからず、どうしていいのか見当もつかず、蘭はすっかり途方に暮れていた。
・・・自分がいる場所が、どこかのビルの屋上だということはわかる。
だが、誰に、どうやってここへ連れられたのか、なぜこんなところに来る羽目になったのか、まったく記憶に残っていなかった。・・・というのも、どうやら眠らされている間に運ばれていたらしく、目が覚めたときにはすでにこの場所に座らされていたのだ。両手両足を、ロープのようなもので縛られた状態で。
2月の寒空の下、吹きっ晒しの屋上には乾いた冷たい風が通り抜け、蘭の体温をどんどん奪っていく。手足はすっかり冷え切り、もう感覚がなくなってしまっていた。
声を出すことはできたが、こんな屋上で助けを求めたところで、誰にも聞こえそうにない。
今夜は丁度満月で、月明かりが蘭の置かれた場所を照らしてくれているのだが、このビル、どうやら誰も使っていないらしく、屋上のフェンスはところどころ破れているし、少し離れたところにある昇降口のドアは蝶番が外れて傾いてしまっている。照明らしき高いポールは立っているが、そこにも明かりは灯っていない。
さびれた廃墟のようなこの場所に誰かが偶然やってきて蘭を見つけてくれる・・・という可能性は、残念ながら有りそうになかった。
本当に、どうしてこんな状況になってしまったのだろう。
もしかして、誘拐された?
でもうちは、そんなにお金持ちなわけじゃないし・・・。
まったくもって、わけがわからない。
何が目的で、いったいどこの誰が、蘭をここに連れてきたのか。そしてその「どこかの誰か」は、いったいどこに行ってしまったのか。広々とした屋上の端に、ぽつんと蘭だけを残して・・・。
その人がいれば、せめて蘭をここに連れてきた理由だけでもわかったかもしれないのに。
そして蘭は、こんなことになった原因を見つけようと、自分の記憶を手繰る。
(・・・今日はけっこういい気分で、ちょっと浮かれてたのよね・・・)
なぜ気分がよかったかといえば、昨夜、随分と久しぶりに、電話がかかってきたからだ。
電話の相手は、蘭の幼馴染。
高校生探偵で、ホームズおたくで、推理バカな・・・蘭の、大切な人。
とても厄介な事件に関わっているらしく、その事件を追いかけていったまま帰ってこない人。
いつか必ず、死んでも帰るから、それまで待っていてほしい・・・そんな勝手な伝言を残したまま、蘭を待たせ続けている人。
その彼からの連絡がぷっつりと途絶えてしまったのが、1ヶ月ほど前のことだった。
もともとまめに電話をくれるほうでもなかったので、始めは事件が大変なのかな、と思って気にもしていなかった。
だが、こちらから電話をしてもずっと留守電になったままで、メールを送っても返事がなく・・・2週間3週間と時がたつにつれ、もしかして何かあったんじゃ・・・と不安になった。
好奇心のままに、どんな危険なことにでも首を突っ込みたがる困ったヤツだから・・・。
そんな不安と、彼の声が聞けない寂しさとで、蘭はこのところすっかり沈んでいた。
いつもだったら蘭が不安になったり沈んでいたりしているときには、彼女の家に居候している小さな男の子が何かと元気付けてくれる。
だが、そのコナンも何が忙しいのか、まるで新一と打ち合わせたかのように時を同じくして、この1ヶ月ほどは阿笠博士の家に入りびたり、ほとんど家に帰ってこな くなっていた。
そんなコナンが昨日は久しぶりに早く帰ってきて、へこみきった蘭の顔に、なぜか大層ショックを受けているようだった。心配そうに自分を見上げる彼に、なんとか笑顔で「何でもないよ」と言ってはみたものの。
実は精神状態は最悪に近くて。
・・・新一から電話がかかってきたのは、その直後のことだった。
まるでコナンが、蘭の様子を新一に知らせたかのようなタイミングの良さ。
およそ1ヶ月ぶりに聞く新一の声は、蘭が聞きたくて聞きたくてたまらなかったもので、その声を聞いただけで、それまでの胸のつかえがすーっと消えていくのを感じた。
単純だなあ、と自分でも思う。新一の声を聞けないときは落ち込んで、聞いた途端に嬉しくなって・・・。
それが昨夜のことで、おかげで久しぶりに熟睡できて、だから今日は朝から気分が良かった。
期末試験が近いから空手部の練習はお休みで、園子と一緒に学校帰りに喫茶店に寄ったり、買い物をしたりして。
その帰りに、自分たちの後をつけてくる男がいたのが、ちょっと気持ち悪かったけれど、園子が睨んだらすぐに離れていったし。
で、帰宅して晩御飯を作っていたら・・・。
(お醤油切らしてたの、すっかり忘れてたのよね・・・)
その日のメニューは肉じゃがで、だから醤油は絶対に必要で。しょうがないから、コナンに留守番を頼んでスーパーまで走ったのだ。
そして帰ってきたら。
家の前の歩道を、不審な男がうろついていた。
下校途中に後をつけてきた、あの若い男だ。離れていったと思っていたのに、あのあとも蘭の後をつけてきていたのだろうか。
探偵事務所の窓から漏れる明かりを伺うように、挙動不審に行ったりきたりとうろつく様子が気持ち悪くて、思わずわき道に身を隠したのがいけなかった。
その男が立ち去るのを待ってから家に入ろうと思っただけなのだが、路地を入って建物の影から男の様子を窺っていたときに・・・背後から音もなく近づいてきた別の何者かが、いたのだ。
はっと気づいたときには、ハンカチを口に押し当てられて、薬のようなものを嗅がされていた。
・・・そこからの記憶がない。
どうやらそのまま、その人物にここに連れてこられてしまったようだ。
(・・・こんなことになるんだったら、コナン君に一緒について来てもらえばよかったな・・・)
出掛けにコナンが心配そうに「一緒に行こうか?」と言ってくれたことを思い出して、少しだけ後悔する。
あの場に彼がいたなら、少なくとも助けを呼びに行ってもらうことができたのに。
だがそう考えてから、蘭はぶんぶんと首を振って自分の考えを否定した。
・・・それはきっと、ありえない。
もしあの場にコナンがいたら・・・きっと、蘭を庇って犯人に飛び掛っていただろう。これまでの経験から、間違いなく彼ならそうすると思った。
あの小さな身体で、蘭を必死に守ろうとしてくれただろう。・・・まるで、新一みたいに。
だから、あの場にコナンがいなかったのは、不幸中の幸いだったのだと思おう。
あの子を危険な目に遭わせずにすんだのだから。
子供のくせに何にでもよく気がついて、変なことをよく知っている不思議な男の子。
蘭がへこんでいるときや辛いときには、いつもそばにいてくれる。・・・何故だかあの子と一緒にいると、ほっとするのだ。まるで、新一と一緒にいるときのように・・・。
コナンは新一なのだと、そう信じていたこともあった。
子供とは思えない推理力と行動力で。眼鏡をはずせば新一の子供の頃にそっくりの顔で。時折垣間見せる大人びた表情や口調は、やっぱり新一を思わせて。
きっと、新一にそばにいて欲しい、と願う自分の心の弱さが、コナンの上に新一を重ねて見せていたのだと思う。
・・・それは自分の勘違いだったのだと、思い知らされたのだけれど・・・それでも、今でも時々思ってしまう。
コナンが新一だったらよかったのに・・・って。
ずっとそばにいてくれているコナンが、本当は新一だったら・・・そうしたら、こんなに寂しくないのに。辛くないのに。
でも、二人は別人だから。
どんなにそうだったらいいな、と思っても、それはありえない話だから。
どんなにコナンが新一に似ていても、絶対に新一ではないのだから。
まるで自分に言い聞かせるようにして、強くそれを否定する。
よりいっそう冷たい強い風が屋上を吹き抜けて、蘭は大きく身体を震わせた。
ここに連れてこられてから、どれくらいの時間がたっているのだろう。時計を見ることができないので、さっぱりわからなかった。
随分長い時間がたったようにも思えるし、寒さのせいでそう思ってしまうだけで実はほんの数十分ほどしかたっていないのかもしれない。
(・・・けど、このままで放っておかれたら、間違いなく凍死よね・・・)
今朝のワイドショーの星占いでは、おうし座の運勢は恋愛運が良くて健康運は良くないって、いつもにこやかな女子アナが言ってたな、と、緊張感のないことを思い出す。
しょせんは占いだと思いつつも恋愛運が良いことに気をよくして、健康運の悪さなんて気にもしていなかったのだが、このままでは凍死とまではいかずとも、この寒さで間違いなく風邪を引いてしまうだろう。 良いほうの占いは当たらないのに、悪いほうだけが当たってるなんて、ちょっと納得いかない。
わけもわからずにこのような理不尽な状況に置かれているにしては、蘭はけっこう冷静だった。のんびりしている、とも言う。
何しろ父親が探偵をやっえいるおかげで、幸か不幸かこれまでにも散々「危険な目」にはあってきた。つまりは場慣れしているのだ。・・・喜ばしいこととは思えないけれど。
(・・・わたしがいつまでも帰ってこなかったら、きっとお父さんは心配して、警察に行ってくれるわよね。お父さんは名探偵なんだもん、わたしがここにいるってことも、すぐに見つけてくれるかもしれないし・・・)
普段はあんなぐうたらだけれど、いざとなれば頼りになる人だと信じているから。
だからきっと、お父さんが助けにきてくれるはず。
(・・・でも、本当は・・・)
現実には、蘭がいなくなったことに気づくのは父かコナンで、助けにきてくれるとしたら、その二人でしかありえないのだけれど。
でも、本当は・・・父ではなくて、コナンでもなくて。
・・・新一が、助けにきてくれるんじゃないか、って、そう思ってしまう自分がいる。
だってこれまで蘭が本当に辛いとき、助けてくれたのはいつもいつも新一だったから。
「・・・新一・・・」
どこにいるかもわからないその人の名前を、蘭は震える声で小さく呟いていた。
***
ぎい・・・と、錆びた金属の耳障りな音が、しんと静まり返った屋上に大きく響いた。
寒さに身を縮ませていた蘭は、はっとして顔を上げる。
あたりの暗さにすっかり慣れた目が、昇降口に蠢く小さな人影を捕らえるのは容易かった。
・・・あれが、自分をここに連れてきた人物だろうか。
目を凝らしてその人影の動きを追う蘭の視界の中、人影はコツ、コツ、と冷たい足音とともに自分の方に近づいてくる。
蘭をここに残したまま、どこへ行っていたのだろう。
そして、何をしに戻ってきたのだろう。
何のために蘭を浚ったのだろう。
・・・これから蘭を、どうするつもりなのだろう。
答えを求めるように凝視する。
やがて、それが「男」だと判別できるまでに、人影が近づいた。そして蘭から3メートルほどの距離を空けて、男が立ち止まる。
月明かりの中で、その容貌はある程度見て取ることができた。
(・・・この人・・・!)
男の冷たい眼光に、蘭は思わず息を呑んだ。・・・恐怖のためではない。男の顔に見覚えがあったのだ。
時代錯誤な黒の衣装で全身を包んだ長髪の男。
凍てつくような眼差しで、蔑むように蘭を見下ろしている男・・・。この男を、蘭は知っていた。
あれは確か、新一とトロピカルランドに行ったときだ。
乗っていたジェットコースターで殺人事件が起こって、またたく間に新一が事件を解決した。あのとき、一緒にジェットコースターに乗っていた二人連れのうちの一人だ。
事件後、新一は彼らのことを妙に気にしていて、そしてその日を境に、ぷっつりと姿を消してしまった。
この男は・・・新一が今関わっている厄介な事件に、関係のある人物なのではないだろうか・・・。
蘭がそんなことを考えていると、男はふん、と鼻で笑った。
「・・・声一つあげないとは、なかなか胆の据わった小娘じゃねえか。それとも恐怖で口が聞けなくなったのか?」
底冷えのするような、低く冷たい声。その声を聞いただけで、蘭の背筋に震えが走った。
空手で鍛えられている蘭は、滅多なことで他人に恐怖など感じない。けれどこの黒ずくめの男から放たれる殺気は尋常ではなく、たとえ蘭の手足が自由に動かせる状況であったとしても、とても じゃないが敵う相手だとは思えなかった。
「なぜお前が攫われたのかぐらい、知りたくはないのか?」
「・・・教えてくれるの?」
この非常事態に陥っても声一つあげない蘭をおもしろがっているのか、揶揄するような男の言葉に、答えを返すだけでとてつもないエネルギーを消耗している気がする。
男は再度、鼻で笑った。
「お前は、餌だ」
「・・・餌・・・?」
「工藤新一をおびき出すための、な」
「新一、を・・・?」
馬鹿の一つ覚えのように男の言葉を繰り返す。
(それって・・・)
それはつまり、自分は新一を呼び出すための、人質にされたということ・・・?
「もうじき工藤はここに来る。・・・まあ、奴が怖気づいて女を見殺しにするような男なら、お前が死ぬだけの話だがな・・・」
では自分が攫われてこの屋上に連れてこられたのは、新一をおびき出すためだったというのか。
この目の前の恐ろしい男はやはり新一の関わっている事件の関係者で、しかも新一と敵対する立場にいる人物、ということなのだろうか。
新一が来なければ、蘭を殺すと男は言った。
ということは、新一がくれば、新一を殺すということではないのだろうか。
新一を殺すために、蘭を攫って、新一を呼び出した、ということ・・・?
「どうして・・・新一を・・・」
「てめえの心配より、男の心配か? 泣かせるじゃねえか・・・」
まるで泣きそうにない口調で言ってから、男は蘭に背を向けた。そのまま、建物の中へと続く階段に向かって歩き始めた男の背中に、蘭は恐怖も忘れて叫んでいた。
「待って! ・・・新一は、ほんとうにここに来るの!?」
「さあな・・・」
男は振り返りもせずに吐き捨てる。
「奴にここに来るように伝えろと、警察には言った。・・・奴の耳に届いているのかは、わからねえがな・・・」
では、・・・・では、新一は、蘭が人質になっていることを、知らないかもしれない。
そうであってほしい、と、祈るように蘭は思った。
ここにくれば、きっと新一は殺される。この男に、殺されてしまう。
けれど蘭が人質になっていると知れば、新一は必ず来るだろう。自分のために誰かを見殺しにすることなど、あの新一がするはずがないのだから。
だから、どうかこのことが、新一の耳に入りませんように・・・と、蘭は祈らずにはいられなかった。
新一がこなければ、自分が殺されるかもしれない。でも、新一が殺されてしまうくらいなら、そのほうがずっとましだと思った。
ただただ蘭は、新一のことを思った。
どうか、新一がここに来ませんように、と。
だがその一方で、もう一人の蘭が叫んでいる。
どうか、新一が助けに来てくれますように。
あの自信たっぷりな不敵な笑顔でここに現れて、いつものように鮮やかにこの男を倒して、わたしを、迎えにきてくれますように・・・。
相反する二つの思いを胸に抱える蘭の耳に、誰かが階段を駆け上がってくる小さな足音が聞こえてきた・・・。