Restart side Ran (2)




「ふん・・・。どうやら逃げなかったようだな」

 小さく聞こえてきたのは男の声。
 男が建物の中に入っているためか、微かにしか蘭の耳には届かない。だがその一言で、そこに新一がきているのだということがわかってしまった。

(・・・新一・・・)

 男に答える新一の声は聞こえてこない。誰かと誰かが話しているな、という気配がするだけだ。けれどそこには、新一がいる・・・。

 新一がここに来ませんように、という蘭の願いは届かなかった。
 自分が迂闊にも攫われてしまったせいで、新一を危険な目にあわせてしまった・・・それが申し訳なくて、蘭はぎゅっと唇をかみ締めて俯いた。

 その一方で、すぐ近くに新一がいる・・・ということに、震えるほどに喜びを感じている自分がいる。
 会いたくて会いたくて会いたくて、待ち続けた人が、そこにいる。

「蘭!」

 蝶番の外れた扉の向こうの暗がりから、自分を呼ぶ声が聞こえて・・・蘭ははっと顔をあげ、思わずその姿を探し求めた。

「・・・新一・・・」

 間違いなく、新一の声だった。
 昨日の夜、電話で聞いた声。でもそれは受話器を通して聞こえる声で、新一自身は、どこか遠くにいるはずで・・・声は聞けても、その存在を感じ取ることはできずにいた。
 けれど、今は。電話越しではない、新一の声。
 新一が、そこにいる。

「どうした、怖気づいたか? さっさと出て来い。女の脳天をぶち抜かれたいか」

 先に屋上に戻ってきた男が、新一のいる暗がりに向かって苛立たしげに言い、その手に持っていた銃を蘭に向けた。蘭ははっと息を飲む。
 こんな風に人質にされていては、新一の足手まといになっているのは間違いない。
 新一を間近に感じた嬉しさで恐怖も何も一瞬忘れていたが、再び現実が蘭に襲い掛かってきた。

(・・・わたしが攫われたりしたせいで、新一が・・・)

 銃口を向けられた恐怖よりも、そのことによって動きがとれなくなっているであろう新一のことを考えて、蘭の胸がぎゅっと音を立てた。
 暗がりからは、新一の声が聞こえてくる。

「オレは逃げも隠れもしねーよ。テメーとさしで勝負してやるさ」
「ふん・・・なら、とっととその穴倉から出てくるんだな。こそこそと鼠のように動き回る、薄汚い探偵が・・・」
「女を人質にとるような卑怯者に言われたかねーな」
「警察の影に隠れているしか能のない臆病者が、たいそうな口を叩くじゃねーか」
「・・・隠れてねーって言ってんだろ? お望み通り、姿を見せてやるさ」

 挑むような新一の言葉に、蘭は知らず知らずに固唾を呑んでいた。
 新一が、そこにいる。
 会いたくて会いたくて・・・待ち続けた人が。

 ・・・蝶番の外れた扉が、音を立てて開かれた。
 蘭と男は、そこから現れた人影を注視する。
 数歩、自分たちのいるほうに歩み寄った人影が、月明かりの下に浮かび上がる。

 その、人物は。

「・・・コナン君・・・?」

 蘭は、目を見開いて息を飲んだ。
 そこに立っていたのは、新一ではなかった。だが、新一によく似た、男の子。
 視力が悪い、と常々言っていたくせに、なぜか今は眼鏡をかけていない。だからだろうか・・・その表情は、いつもの見知ったコナンのものより数段に大人びて感じられ、その視線は蘭の傍らに立つ男を鋭く睨みつけている。

(・・・どうして、コナン君が・・・?)

 暗がりから聞こえてきたのは、間違いなく新一の声だった。聞き間違いであるはずがない。
 けれども現れたのは、コナンで・・・。

 蘭のうろたえたような視線に気づいたのか、コナンは男に向けていた鋭い視線をふっとやわらげ、蘭を安心させるかのように口元に笑みを刻んだ。

「・・・ちょっと待ってろ」

 いつもの、コナンの口調ではない。
 これは、まるで・・・。

 コナンは再び男に視線を戻す。・・・蘭に向けた優しい表情は一瞬で消え、鋭い眼光が男を見据えた。
 蘭と同様、男もまた、突然の子供の登場に戸惑っているようだった。この男も、暗がりから姿を現すのは新一だと思っていたのだ。

「・・・何だ、お前は」

 戸惑いを隠せない男の問いかけに、コナンはふっと笑う。とても小学生とは思えない、その表情。
 見覚えのある、その表情。

「組織の最強のヒットマンが、女を人質に薄汚れた廃ビルに身を潜めなきゃならねーとは・・・落ちたもんだなあ、ジン・・・」
「・・・小僧、何者だ。なぜ俺の名を知っている」
「テメーの名前だけじゃねーぜ。ウォッカにテキーラ、ピスコにベルモット・・・」
「貴様・・・」
「みんな死んじまった。・・・テメーが殺したやつも含めてな。テメーもそろそろ年貢の納め時だぜ・・・」
「貴様、まさか・・・」

 その口調。その表情。
 それを、蘭は知っている。
 けれど。・・・けれど!

 コナンからジンと呼ばれた男は、コナンの台詞に驚愕した表情を見せた。蘭に向けられていた銃口がコナンに向けられる。
 そのあとのことを、蘭はまるで別世界の出来事のように、ぼんやりと見ていた。
 コナンがどういう方法でか知らないが、サッカーボールを取り出し、男に向かって蹴りつける。ボールは信じられない勢いでコナンの足元を離れ、男の顔面に突き刺さった。
 男の身体が宙に浮き、後方に倒れこむ。・・・そしてそのまま、動かなくなった。コナンが男に駆け寄り、男の手から銃を奪い取る。
 大きく息をついたコナンが、額の汗を拭い、そして、顔を上げる。

 これは、誰?
 こんな顔の男の子、わたしは知らない。
 ・・・違う。
 ・・・これは、わたしの知っている、顔。

 視界の中で起こったすべてのことが、まるでスローモーションのように感じられた。
 何が起こっているのかもよくわからない。思考が完全に停止していた。
 そんな蘭のそばに、駆け寄ってくるコナン。

「蘭、大丈夫か?・・・怪我してねぇな?」
「う、うん・・・大丈夫。・・・でも、どうしてコナン君が・・・」

 蘭姉ちゃん、ではなく、蘭、と呼ぶ。怪我してない?ではなく、怪我してねぇな?、と言う。
 その口調は、子供っぽさのかけらもなくて。

「・・・説明は後だ。ロープ切るから、じっとしてろ」

 コナンが男から取り上げた銃を発射して、蘭の手足のロープを切った。
 何のためらいもなく銃を撃ったりして。しかも、蘭の身体には傷一つ付けずにロープだけを切る、という正確さで。・・・そんなことのできる小学生が、いったいどこにいるというのか。
 ようやく身体の自由を取り戻した蘭に、コナンが小さな手を差し出した。

「立てるか?」
「う、うん・・・」

 一瞬の躊躇のあとでコナンの手につかまって、蘭はのろのろと立ち上がった。
 ずっと同じ姿勢で座らされていたせいで、身体のあちこちが痛み、寒風にさらされていた身体はすっかり冷え切って、蘭の動作を鈍くさせる。

 コナンの手。小さな、子供の手だ。
 それが、冷えた蘭の手には温かかった。

「・・・コナン君・・・あなた・・・」

 立ち上がってコナンを見下ろしながら、蘭は言葉を探した。
 だが、蘭が次の言葉を発するよりも早く、コナンは鋭い口調で蘭の問いを封じ込めた。

「走れるな? すぐにここを出て、警察に連絡するんだ。目暮警部が出動準備をして待機してくれてる」
「で、でも私、携帯持ってきてないよ」
「これ使え。110番じゃなくて、目暮警部の携帯に直接かけるんだ。リダイアルですぐに繋がる。・・・使い方、わかるな?」

 そんな大人びた口調で、鋭い声で、当たり前のように蘭に指示を出す。
 コナンの差し出した携帯電話を受取りながら、蘭はコナンを見つめ続けた。
 そんな蘭の疑問も戸惑いもわかっているだろうに、それにはまるで答えを与えてはくれずに、コナンは蘭の腕を引いて「行け!」と強く促した。

「行け・・・って、じゃあ、あなたは・・・」
「あいつを一人で残しておくわけにはいかねーからな・・・。蘭一人で行ってくれ」
「でも」
「オメーが無事にここを出ねーと、警察が出動できねーんだよ。とにかく急いで下まで降りて、ビルを出てから電話しろ。・・・おっちゃんが心配して待ってたぜ」

 蘭を安心させるためなのか、最後はちょっとおどけた口調になったコナンのその言葉に、蘭の頭はようやく現実を認識した。

 そうだ、お父さんが心配している。
 蘭が攫われてから何時間がたっているのかはわからなかったが、きっと父は心配して待っているだろう。早く連絡して、無事であることを伝えなければならない。
 頭の中は混乱していたが、蘭が無事であることが確認できれば警察がここに来ることができるのだ、ということは理解できたので、蘭はコナンの言葉に従い、階段へと歩を進めた。
 蘭を攫ったコナンがジンと呼んだあの男は、コナンの蹴ったサッカーボールで気絶してしまったようだったが・・・あんな危険な男は、早く警察に捕まえてもらわなければならない。その警察を呼ぶのが今の自分のしなければならないことだと、蘭はちゃんとわかっていた。

 だから、階段に向かう。
 ・・・コナンを、その場に残して。

 けど。
 けれど。

 階段へと続く踊り場の扉の前で、蘭の足がぴたち止まった。
 止まってはいけない。行かなければならない。・・・そんなことはわかっている。けれど。
 どうしても、そこから先に進めない。

 恐る恐るコナンを振り返った。コナンは蘭を見つめている。

 鋭い視線。
 厳しい表情。
 それは、子供の顔じゃない。

 その表情も、視線も、口調も、・・・かもし出す雰囲気さえも、ただ一人の人を思わせて。
 唇が震えているのが、自分でもわかった。

「・・・しんいち・・・なの・・・?」

 蘭はついに、それを口にしてしまった。
 考えないように、考えないようにと自分に言い聞かせてきた、その問いを。

 コナンは何も答えない。
 あまりに小さな蘭の声は、コナンの耳には届かなかったのだろうか。
 なかなか先へ進もうとしない蘭を、コナンは再度「早く行け!」と促した。

 それでも蘭は、動けない。
 一度口にしてしまったその問いは、その思いは、もう二度と消すことなどできやしない。

 コナン君、あなたは、新一なの・・・?

 それは、蘭が自らに禁じた思いだった。
 コナンが新一であればいいのに、と、そう思ってしまうたびに、自分に言い聞かせてきた。
 そんなことはありえないのだと。
 二人は別々の人なのだと。
 コナンのちょっとした仕草に、表情に、瞳に、新一の影を重ねてしまうたびに・・・そう言い聞かせてきた。

 だって。
 そうであって欲しいと思えば思うほど、そうじゃないのだと思い知らされたときが辛いから・・・っ!
 だから、そうじゃないんだと自分に言い聞かせてきたのに。
 そう思い込もうとしていたのに。

(・・・ひどいよ、コナン君・・・)

 どうして今更、新一の顔をするのか。
 今まで、蘭が疑うそのたびに、蘭の思いを打ち砕くかのごとく、コナンは新一ではないのだという証拠ばかり突きつけてきたくせに・・・!

 コナンも動かない。ただ黙って、蘭を見つめ返している。
 ・・・二人の視線と視線が、月明かりの下で絡み合った。

 どれほどそうしていただろう・・・蘭はぎゅっと唇をかみ締め、そして思いを振り切るかのようにビルの中に向かって駆け出した。
 今しなければならない事は、ちゃんとわかっている。このビルから出て、父や目暮警部に自分の無事を伝えることだ。そして警察に動いてもらって、あの男を逮捕してもらうことだ。

 階段を駆け下りようとした蘭の足が、何か小さなものを蹴飛ばした。
 屋上に出れば月の光があるのだが、建物の中にはうっすらとしか明かりが届かず、自分の足に当たったものが何だったのか、よくわからなかった。
 蘭が蹴ってしまったその小さな物体は、コツンコツン、と音をたて、階段を転げ落ちていった。
 蘭はそれを追いかけるようにして階段を降り、踊り場で立ち止まって「それ」を見つけた。

(・・・え? これ、コナン君の蝶ネクタイ・・・?)

 だが、ただのネクタイなら、コツンと音がするのはおかしい。暗がりの中で、蘭はその蝶ネクタイを目を凝らしてよく見てみた。裏に、ダイヤルのようなものやマイクのようなものがついている。これは一体、何なのだろう。
 蘭は、そのマイクに向かって小さく声を出してみた。
 ・・・耳に届いたのは、自分の声ではなかった。

(・・・新一の、声・・・・・・じゃあ、さっき聞こえたのは・・・・・・)

 コナンが現れる前、確かに新一の声がした。
 あれは、この蝶ネクタイを使って、コナンが話していたということなのか。

 それに。
 それに、昨日の電話は・・・?

 久しぶりに帰ってきたコナンが、蘭がへこんでいるのを知って驚いて、その直後にかかってきた新一からの電話。あまりに良すぎるタイミングで。

(そうだ、携帯・・・!)

 コナンに手渡された携帯電話のことを思い出し、蘭は握り締めていたその電話のディスプレイを開いた。
 発信履歴。
 最新のものは警視庁への電話で、今日の9時過ぎ。その前に阿笠博士の名前。

 そして、昨日の夜。

 ・・・毛利蘭の、名前。
 間違いない。昨日蘭に電話してきたのは、この携帯からだ。では、この電話は、新一のもの・・・?

(・・・メールは・・・)

 携帯の中を覗くことに躊躇して、だがそれを確認せずにはいられなくて、蘭は震える指でメールボタンを押していた。

 受信フォルダに並んだ蘭の名前に、確信する。
 コナンから渡されたこの携帯は、やはり新一のもの。

 なぜ・・・・・・なぜ、コナンが新一の携帯を持っているのか。その答えを、蘭は唯一つしか思いつくことができなかった。

「・・・しん・・・いち・・・っ!」

 もう、疑えなかった。
 たった一人でこのビルの屋上まで、蘭を助けにきてくれたあの小さな男の子は、新一なのだとしか・・・思えなかった。

 蘭は今すぐに屋上へと駆け戻りそうになる衝動を、必死で押さえた。
 そして、逆に階段を駆け下りる。

 早く警察を呼んで、そして急いで新一のところに戻ろう。

 ・・・新一の、ところに。

 
 


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