おさななじみ(2)




 一度覚えてしまった重い感情を払拭できないままに、翌朝、蘭は一人で登校した。

 もしかして途中で新一と一緒になれないかな、と、きょろきょろとあたりを伺いながら通学路を歩いてきたのだが、結局学校の校門をくぐるまで、その姿を視界に捉えることはできなかった。
 もし新一に会えたら、昨日のことを謝って・・・そして昨日の分まで、ゆっくり話がしたかったのに。

 蘭が謝る必要など、まったくないはずなのだけれど・・・昨日の去り際の新一の態度は、蘭に後ろめたさを感じさせるには十分なものだった。
 ともちゃんが言ったように、新一と一緒に帰る約束をしていたわけではない。たまたま校門で会ったから、偶然帰る時間が一緒になったから、そして帰る方向が同じだから、一緒に歩いていただけだ。
 それは小学校の頃から変わることのない、二人にとっては当然の、当たり前のことだった。

 その当たり前のことを、これまで「おかしい」と指摘されたことなど、一度もなかった。蘭や新一の周囲の人たちにも、それは当然のこととして受け入れられていたから。
 昨日、初めて、ともちゃんにそれを指摘された。

『ただの幼馴染なのに、二人っきりで一緒に帰ったりするんだ』

 うん、そうよ。おかしい?・・・と、そう言えばよかったのだろうか。
 だが中学生になってからというもの、妙に新一との仲をからかわれることが多くなっているという現状が、ついつい蘭に、「たまたま一緒になっただけ」という弁解を口にさせていた。

 新一が、「先に帰るぞ」と言い捨てて、蘭を置いて先に帰ってしまったのは・・・ともちゃんの新一に対する態度があまりにも失礼だったからなのか、それとも蘭が、「約束なんてしていたわけじゃない」と言ってしまったからなのだろうか。
 何となく後者のような気がして、だからこそ蘭は、新一に対して後ろめたさを覚えてしまっているのだ。

 でも、嘘をついたわけじゃない。
 ほんとに約束なんてしていないし、たまたま偶然あそこで一緒になっただけなのだから。・・・そのことを、嬉しく思っているのかどうか、までは、聞かれてはいないわけだし。

 でもそんな蘭の思いは新一にもともちゃんにも伝わらず・・・結果として新一にあんな形で置いていかれたことが、かなりのダメージになっていた。
 そして、その新一をすぐに追いかけることが、できなかったことも・・・。

「おっはよー、蘭!」

 教室に入るなり、いつものように明るい声で名前を呼ばれる。

「・・・おはよ、ともちゃん・・・」

 いつものような笑顔でそれに応えるのが、今朝はかなり苦痛だった。

 きっと今日も一日、ともちゃんは、蘭のそばを離れない。
 がんじがらめに、蘭を縛ってゆく。

 嫌いじゃない。
 友達だと、思ってる。
 でも・・・でも、わたしは、他のクラスメイトとも話がしたいし、園子とも・・・新一とも・・・話をしたり、一緒に帰ったり、したいのに・・・。

「ねえねえ、蘭、昨日の話なんだけどさあ」
「え、うん・・・」

 蘭の気持ちなど、まるで想像もしていないであろう、ともちゃんは屈託のない笑顔で話しかけてくる。・・・いつもなら、それにつられて一緒に笑っていられるのに、今日は笑顔を作るのが難しい。

「・・・昨日、蘭と一緒にいた幼馴染の男の子、何組の人?」
「新一?・・・A組だけど?」
「へえ、A組なんだ。・・・新一君っていうの?」
「・・・工藤新一よ」

 新一って2年生の間じゃ、けっこう有名人のはずなんだけどな、と、蘭は苦笑混じりに考える。
 サッカー部で1年生の頃からレギュラーで、ジュニア選抜に選ばれたりもしている。今や押しも押されもせぬ帝丹中学校のエースとして、工藤新一の名前は学校内でもかなり知られているはず。
 ・・・女子にはかなり人気があるらしい、という話も、聞いたことがある。

 だからともちゃんが、昨日会った新一のことを知らなかったのだということが、なんだか意外な感じがした。
 ・・・もっとも、1年生のときはまったく友達がいなくて、2年生になっても友達は蘭一人だけ、という彼女に、同じクラスになったこともない男の子の情報なんて、入ってこなかったのかもしれないけれど。

「そっか・・・工藤君って、いうんだ」

 ふむふむ、と一人納得したように呟くともちゃんに、蘭は首をかしげた。

「・・・新一が、どうかした?」
「なんかさ、カッコいいよね、工藤君って」
「え・・・」

 思ってもみなかったともちゃんの言葉に、蘭は目を見開いて、その友人の顔をまじまじと見つめた。ともちゃんは微かに頬を上気させて、嬉しそうに目を輝かせている。
 ・・・嫌な予感がした。

 だってともちゃん、昨日はお昼休みも放課後も、新一のこと、睨んでたじゃない。
 敵対心燃やして、威嚇するみたいに、追い払ってたじゃない。
 それが一晩たってみれば・・・こんなこと、言うなんて・・・。

「まさか、ともちゃん、新一のこと・・・」
「うん、そうなの! 昨日、うちに帰ったあとね、どうしても彼の顔が、頭から離れなくて・・・わたし、一目惚れしちゃったみたい!」
「・・・・・・」
「だからさ、蘭にお願いがあるんだ! 蘭、工藤君の幼馴染なんでしょ? 工藤君に、私と付き合って欲しいって、頼んでくれない?」
「・・・・・・」
「・・・だめ? それとも工藤君、もう彼女いるのかなあ」

 思わず表情を固くした蘭に、まったく気付かないのか・・・ともちゃんは一人で嬉しそうにしゃべり、蘭にそんなことを言ってくれる。・・・蘭の胸の奥で、何かがざわざわと蠢き・・・むかむかとした吐き気が、せりあがってくるのを感じた。
 新一に・・・わたしが、頼むの・・・?

「ねえ、蘭、知らないの? 工藤君に、彼女がいるかどうか・・・」

 なおもそう尋ねてくるともちゃんに、「さあ・・・聞いたことないけど・・・」と応えながら、蘭は「何か」と必死に戦っていた。その「何か」が、いったい何なのか、蘭自身にもわからない。
 蘭の言葉を都合よく解釈したのか、新一には彼女がいないと判断したらしいともちゃんは、両手を合わせて蘭に拝むようにして頼んでくる。

「じゃあ、お願いよ! 工藤君とのこと、とりもってくれない? 友達でしょ? お願いっ!」

 友達・・・うん、ともちゃんとは、友達だ。それは、間違いない。
 仲良くしなきゃいけないと思うし、先生にも頼まれてる。他に友達のいない、人付き合いの苦手な彼女のことを、しっかり任せられているのだから。
 だから・・・だから、この頼みは、引き受けてあげなきゃいけないの・・・?
 友達、だから?

「・・・うん、わかった・・・」

 小さな声で、蘭はそう答えていた。
 途端にともちゃんは目を輝かせ、「ありがとう、蘭!」と叫ぶなり、蘭に抱きついてくる。
 いつもなら、自分を慕ってくれるともちゃんのそんな行為も、苦笑しつつも嬉しかったりするのだが・・・今日は飛びつくようにして抱きついてきたともちゃんの身体を、蘭は無表情に受け止めていた。

 ともちゃんの笑顔を、素直に喜べないのは、どうしてなんだろう。
 ・・・これは、いいこと・・・の、はずなのに。

 だって、人付き合いが苦手なともちゃんが、蘭以外の人間に興味を持ったのだから。ともちゃんのために、これは喜んであげなきゃいけないのに。
 新一とともちゃんが付き合ったら・・・ともちゃんも、もっともっと、人付き合いがうまくできるようになるかもしれないのに・・・。

 ・・・新一と、ともちゃんが、付き合ったら・・・?

 そう思った瞬間に、再び、「何か」が強く蘭の感情を揺さぶった。
 必死にそれに耐えながら、蘭は無理矢理作った笑顔を、何とかともちゃんに向けるのだった。



※※



 昼休み。
 自分の胸を揺さぶった「何か」をとりあえず心のポケットにしまい込み、蘭は新一に会うためにA組の教室へ向かった。
 今はもう、大丈夫。動揺したりしていない。
 ともちゃんが新一のことを好きになってしまったと知って、なぜだか心が騒いだが・・・ともちゃんのために、ともちゃんの想いは、ちゃんと新一に伝えなければならない。

 これまで、どんな女の子に告白されても、興味がないから・・・と断っていたようだから、ともちゃんの気持ちを伝えたって、新一がいい返事をするとは限らないのだが・・・あんな風に頼まれてしまった以上、友達として・・・伝えるだけは、伝えてあげなければ。
 そうしてA組の前にさしかかったとき、ちょうどサッカーをしにグラウンドへ出ようとしていた新一と、ばったりと出くわした。

「・・・新一・・・」
「・・・・・・」

 蘭の姿を見て昨日の別れ際のことを思い出したのか、新一は一瞬、不機嫌そうに顔をしかめた。
 だが、何か言いたげな蘭の様子に軽く肩をすくめると、手にしていたサッカーボールを一緒にいたクラスメイトのほうへと放り投げる。

「わりぃ、オレ、今日パスな!」
「何だよ、工藤、友情より女かあ?」
「バーロ。くだらねーこと言ってねーで、とっとと行けよ!」

 クラスメイトたちを「しっ、しっ!」と手で追い払うと、新一は改めて蘭に向き直る。・・・やはりどことなく、不機嫌な顔で。

「・・・何か用か?」
「あ、うん・・・」

 その不機嫌顔の新一に、わずかにひるみつつも、ここじゃ、ちょっと・・・と、口に出さずに視線で告げると、新一は、「じゃ、屋上行こうぜ」と蘭を促した。

 二人とも無言で、階段を上り・・・まったく人影がないというわけではなかったが、校舎の中に比べれば明らかに人口密度の低い屋上で、さらに極力他の生徒たちからは離れたフェンス脇を陣取る。

 やはり機嫌のよろしくないらしい、新一。昨日のことを、怒っているのかもしれない。
 これはともちゃんの話をする前に、謝るべき?
 でも・・・何をどう謝ればいいのかも、わからない。

 どうしていいのかわからなくなってしまい、口ごもる蘭の前で、新一は軽くフェンスにもたれ掛かると、そのまま腰を下ろしてコンクリートの上に座り込んだ。
 両手を頭の後ろに回し、うーんと伸びをするように顔を反らせて空を見上げる。

「・・・いい天気だな・・・」
「え?」

 つられて空を見上げれば、綺麗な水色のキャンバスにはところどころ、白い綿雲がふんわりと揺れていて・・・5月の暖かな日差しが屋上にきらきらと降り注いでいる。

「ほんとだ・・・」

 ぽつりと、呟いていた。
 天気がいいのは、何も今日に限ったことじゃない。ここしばらく、雨の日はなかったはずだから、最近はずっと、こんないいお天気だったはず。
 だが、こうして屋上に出てきて、そして新一に言われるまで、外は天気がいいということなんて、考えてもいなかった。

 ほんとに、いいお天気。
 吹き抜ける風も気持ちよくて、日差しは暖かくて。・・・まるで世界のすべてが、自分を優しく包み込んでくれているような気さえしてくる。
 そのことに、今更気付くだなんて・・・ここ数日、随分ともったいないことをしていたらしい。

「こんな日に外に出るとさ・・・くだらねーこと考えてんのが、バカらしくならねーか?」

 その新一の言葉は、まさに今、蘭が考えていたことそのままで・・・蘭は驚いて、座り込んでいる新一に視線を戻した。
 ほんとに今まさに、そう思っていたのだ。

 新一のこととか、ともちゃんのこととか。
 あれこれと色々考えて、嫌な気分になったり自己嫌悪に陥ったり。・・・そんな自分が、すごくちっぽけな気がして・・・バカみたいだな、と思ってしまった。
 まさに、そう思った瞬間の、新一の言葉。
 ・・・まるで、わたしの声が聞こえたみたいに・・・。

 昨日もそう思ったけれど、どうして新一はいつもいつも・・・欲しいときに、欲しい言葉をくれるのだろう。
 ずっと一緒に育ってきた、幼馴染だから・・・わたしのことなんて、すべてお見通しってこと?

 それが何だか悔しくて、でも同時に、嬉しくて・・・。
 気付いたら、空を見上げたままの新一に向かって、微笑んでいた。・・・今はもう、不機嫌だった表情は引っ込んでしまい、かわりに新一の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
 屋上をゆっくりと吹きぬける風を楽しむかのように、上半身をフェンスに預けて・・・。

 そよ風が新一の前髪を軽く揺らし、柔らかな日差しが新一の顔を輝かせる。

 カッコいいよね、工藤君て・・・。
 そう言っていた、ともちゃんの言葉を思い出す。
 ・・・うん、確かに、そうかも。
 幼馴染で毎日のように顔を合わせていたから、あらためて考えることなんてなかったけど・・・いつの間にか新一は、女の子に人気があるのが当たり前だと思えるくらい、カッコいい男の子になっている。

 悔しいけど、蘭が見とれてしまうくらいに・・・。

「・・・何、見てんだよ」

 蘭の視線に気付いたのか、空を見上げていた新一が、ふっと蘭に視線を戻した。・・・ちょっと顔を赤くして、照れ隠しのように不貞腐れた顔をしている。
 けれどそれは、先ほどまでの「不機嫌」な顔とは明らかに違って、ちょっと拗ねたような表情で・・・。

「何も見てないわよーだ」
「・・・見てるじゃねーか」
「見てないわよ」
「・・・正直に言っていいんだぜ? オレに見とれてたんだろ?」
「ば・・・ばーかっ! 何、自惚れてんのよ!」

 にやりと笑って図星を指され、慌てた蘭は急いで言い訳を探す。

「そ・・・そんなとこに座ってたら、制服が汚れるじゃないの、って思って見てただけよ! ほら、立ちなさいよね!」
「・・・あ? 別にいーじゃねーか、ちょっとくらい・・・」

 まさかそんなことを言われると思っていなかったのか、面食らったように新一は眉をひそめた。
 蘭にしても、咄嗟に思いついたことだったのだが、口に出してしまってから、自分の言ったことはもっともなことだと思い直す。
 照れ隠しも手伝って、蘭は腰に両手を当て、座り込んだままの新一に大声で詰め寄っていた。

「よくないわよ! ・・・またクリーニングに出さなきゃいけなくなるじゃない!」
「・・・オメーな・・・母さんみてーなこと言うなよ・・・」
「おばさまに、新一の生活が乱れないように見張っててね、って、頼まれてるんだもん」
「・・・ったく、余計なこと蘭に吹き込みやがって・・・」
「何か言った!?」
「あ、いや・・・わかったよ、立てばいーんだろ・・・」

 今年の4月からアメリカに住居を構えてしまった有希子の言葉まで持ち出すと、ようやく新一は諦めたように肩をすくめ、しぶしぶといった様子で立ち上がりかけた。
 ・・・が、何かを思いついたようにその動作を途中で止めると、蘭の顔を見上げてにやりと笑う。

「・・・なあ、蘭」
「・・・何?」

 まさに悪戯小僧といった、その表情。・・・絶対に何か、よからぬことを思いついたのだ。
 警戒しつつ新一の顔を見下ろしていると、新一はもっと顔を近づけるようにと、無言で蘭を手招きする。・・・しぶしぶ腰をかがめて、座り込んだままの新一に近づくと・・・。

「・・・きゃっ!」

 新一はいきなり右腕を伸ばし、蘭の左腕を掴むと、ぐいっと自分のほうへと強く引っ張った。
 蘭はバランスを崩してしまい、座っている新一の上に覆いかぶさるように倒れこんでしまう。新一はその身体を両手で上手く支えると、そのまま自分のすぐ隣に蘭を座らせるように、 ひょい、とコンクリートの上へと誘導した。

「ちょ・・・ちょっと! 何するのよっ!」

 まんまと新一の術中に嵌り、自分も同じように地べたに腰を下ろす格好になってしまった蘭は、新一に非難の言葉を浴びせつつ、慌てて立ち上がろうとした。
 ・・・が、その行為は、新一の腕によって阻止されてしまう。

「・・・諦めろよ。1回座っちまったら、今更立ち上がったっておせーだろ?」

 輪をかけて悪戯っぽくにやりと笑って、新一はそんなことを言ってくれる。

「あのねえっ!」
「どーせ汚れちまったんだし、ま、いーじゃねーか。座って話そうぜ」
「・・・もぉっ!」

 頬を膨らませて睨みつけても、どこ吹く風。
 相変わらずにやにやと楽しそうに笑っている新一に、蘭は諦めたように息をついた。

 ・・・確かに一度座ってしまったからには、今更立ち上がったところで制服が汚れてしまったことには変わりない。
 だったら、このまま座って話そうぜ・・・と、蘭にそれを拒否する理由を与えなくしてしまうあたり・・・ほんと、ずる賢いというか・・・知能犯なんだから。

 いくら睨んで文句を言っても、ただ楽しそうに笑っている新一。それを見ていると、何だか怒る気も失せてしまい、蘭もいつしか、つられてくすくすと笑みを漏らしていた。
 そんな蘭に向かって、新一はなぜだかほっとしたように、蘭にとっては意外なことをぽつりと口にする。

「・・・やっと、オメーらしくなってきたな」
「・・・え?」

 ・・・どういう意味なのかわからずに、蘭は首を傾げた。そんな蘭に、新一はちょっと照れたように笑ってみせる。

「・・・そうやって大声でオレに怒鳴ったり、文句言ったり、笑ったりしてるほうが、オメーらしいってこと!」

 どこかほっとしたように、それでいて楽しそうに、そんなことを言ってくれる新一・・・。

「・・・わたし、自分らしくなかった?」
「何だよ、自分で気付いてなかったのか? 最近の蘭、元気ねーし、表情も暗いし。とってつけたような顔で無理矢理笑ってるし。・・・昨日の昼休みなんか、特にひどかったぜ。 一瞬、蘭じゃねーのかと思った・・・」
「・・・うそ」
「マジで。ま、自分じゃ自分のことなんて、気付かねーもんかもしれねーけどな」
「・・・そう・・・なんだ・・・」

 自覚がなかったわけじゃない。
 最近、自分の感情がうまくコントロールできなくて、いつもだったら絶対に思ったりしないことを、考えることが多くなっていた。
 新一が言うように、それが一番ひどかったのが、昨日のことで・・・。
 新一と園子に対して、いつもなら思ったりしないような疎外感や孤独感を覚えてしまったり、自分を慕ってくれているともちゃんに対して、閉塞感を覚えてしまったり。そして、そんな自分自身に、嫌悪感まで覚えてしまい・・・自分が嫌で、しょうがなかった。
 いや、それは昨日だけのことじゃない。
 ・・・そう、ついさっきまで・・・。

 けれど、新一に屋上に連れ出され、青空を見上げて爽やかな外の空気を吸い込んで、穏やかな風の中で新一と以前と変わらずに話したり、言い合ったりしているうちに・・・いつの間にか、そんな「負」の感情が、どこかへ流れ去ってしまっていた。
 新一が言ったとおり、うじうじとつまらないことを思い悩んでいるのが、ばかばかしくなってきて・・・こんな風に気持ちが軽くなったのは、いつ以来のことだろう。

 そんな風に蘭が考えていたとき。
 ・・・新一が思い出したように話を切り出してきた。

「・・・で・・・話って、何だよ」
「あ・・・」

 そうだった。
 ・・・その話をするために、ここに来たんだった・・・。

 自分の心を悩ませていたいろいろなものが、風に吹き飛ばされてしまったかのように感じていたのだけれど・・・そんなわけには、いかないよね。
 ともちゃんに・・・約束したんだし。

 せっかく吹き飛んだ「重い気分」が、あっという間に再び蘭の上にのしかかってきたが・・・そのことは顔に出さないようにして、蘭は新一に切り出した。

「・・・あのね、新一・・・」
「ん?」
「昨日、一緒にいた、友達なんだけどね・・・」
「ああ、あの、ともちゃんとかいう子か?」

 途端に、それまでは優しげだった新一の表情が、嫌なものを思い出したかのようにあからさまに歪められた。・・・どうやら新一の中では、ともちゃんの印象はあまりよろしくないものになっているらしい。
 それはそうだろう・・・昨日の昼休みにしろ放課後にしろ、ともちゃんは新一に対して、お世辞にも友好的とは言いかねる態度をあからさまにとっていたのだから。
 そのともちゃんが、実は新一のことが好きになって・・・付き合って欲しいと言っているだなんて知ったら、新一はどんな顔をするんだろうか。

「・・・んで?その”ともちゃん”とかいう子が、どうしたって?」

 興味がなさそうに、先を促す新一。
 理由のわからない重い空気が、急激に二人を包む中・・・蘭は、つーっと新一から視線をそらし、足元に視線を落とした。

「・・・その、ともちゃんがね・・・」
「何だよ」
「・・・新一のこと・・・」
「・・・オレ?」
「・・・新一のこと・・・好きなんだって」
「・・・は?」
「・・・だから・・・」
「・・・・・・」
「・・・だから、ね・・・その・・・」
「・・・・・・」
「・・・新一に、付き合って欲しいって・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

 途中から、新一は蘭の言葉にまるで反応しなくなっていた。・・・帰ってくるのは無言だけ。
 ・・・何で、黙ってるの・・・?

 蘭は恐る恐る視線を上げて、ちらりと新一の表情を窺った。
 新一は、黙って蘭に視線を向けている。・・・恐ろしいまでの、無表情で。

「・・・新一・・・?」
「・・・一つ、聞いていいか?」

 感情の込められていない、押し殺したような低い声。新一のそんな声を聞いたのは、生まれて初めてのことかもしれない。

 ・・・もしかして、何か、怒ってる・・・の?

 まさか・・・そんな話をされるのも嫌なほど、ともちゃんのこと、嫌いだった・・・とか?

 けっこう楽しく会話をしていた直後なだけに、新一のこの態度の急変に戸惑ってしまい、蘭は口ごもるように返事をしていた。

「・・・う、うん」
「何で、オメーがそれを、オレに言いにくるんだ?」
「それは・・・ともちゃんに、頼まれたから・・・」
「それを、断ろうとは思わなかったわけだ。オレとそいつの仲を、とりもってやろうと思ったってわけだ」
「だって、ともちゃんは友達だし・・・」
「・・・ふうん」

 無表情で、そのまま黙り込んでしまう、新一。
 蘭はあまりの居心地の悪さに、再び俯いてしまっていた。

 しばしの、沈黙。

 その沈黙を破ったのも、新一のほうだった。

「・・・だよな。・・・ただの幼馴染、だもんな・・・」

 蘭の耳に、かすかに届いた、つぶやき。

「・・・え?」

 驚いて顔を上げた蘭の視界の中、新一はそのまま何も言わずに、いきなり立ち上がった。・・・そして制服のズボンについた埃を祓おうともせずに、大股で階段の昇降口へと歩き出す。

「・・・し、新一!? どこ行くのよ!」

 慌てて自分も立ち上がり、大声で呼び止める。・・・と、新一はぴたりと足を止め、顔だけで蘭を振り返った。相変わらず、無表情のままで。

「・・・そいつ、教室にいるんだろ?」
「え・・・ともちゃん? う、うん・・・いるはずだけど・・・」
「・・・返事してくる」

 ・・・え?

 言葉を失った蘭の視界から、新一の姿が消えた。昇降口の中に、入っていってしまったのだ。

 返事・・・って・・・。

 蘭の中に、再び「何か」が蠢き始めた。

 断るつもりなら、この場で、わたしに言ってるはずよね・・・?
 直接、本人に伝えにいくってことは・・・それって、OKって意味、なの・・・?

 急速に、胸の奥が冷えていくのを・・・蘭は、感じていた。
 

 


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